「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

勉強に孤独はつきものたい

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 孤独にならないと勉強はできない

当然ですが、友達とわいわい騒ぎながら勉強することはできません。

彼氏彼女とイチャイチャしながらも勉強はできません。

SNSを見ながらも勉強で、できるけれど、勉強したと果たして言えるのでしょうか。

 

そう、勉強とは孤独にならないとできないのです。

僕が改めて言うまでもなくすごく当たり前のことなんですけどね。

僕自身孤独だからこそ勉強(僕の場合は読書というスタイルを取ることが多いですが)できているのだと思っています。

隣に誰かがいたり、テストなどで競う合う仲間がいるほうがいい、という人も多いのでしょうけれど僕は逆で、一人で黙々と武者修行のように勉強するスタイルが性に合っています。

今の就労支援でのプログラミングの勉強が僕のスタイルに合っているなと感じるのは、普段は黙々と一人で勉強できるのですが、困ったことがあればすぐに質問、相談できる人が身近にいることがとてもありがたいなと感じるからです。

 

勉強を継続するには孤独とどう向き合うかを問われる

勉強を続けるというのはそれだけ孤独な期間が続くということです。

ただ今僕が言っている勉強というのは、「社会人になってからの勉強」なので、今現在学生で周りに勉強仲間もたくさんいるという方はその方たちと切磋琢磨して頑張ってください。

社会人になって日々仕事以外の時間を自分に知識をつける時間にあてたり、考えたいことを考えるための力をつけるため読書をしたり、なんかしていると当然ですけれど1瞬で孤独になります。

もちろん人付き合いがよく勉強、読書もほどほどでいいかなという方は飲み会も参加し、暇なときに勉強しよ~って感じでうまいことで来ているんだと思います。

しかし本当に勉強や読書を毎日の習慣にして、ある程度時間を確保するのであれば当然孤独になる必要があります。

それを苦とは思わず、受け入れられる人ではないと勉強の継続は難しいです。

 

勉強すればするほど周りと話が合わなくなってくる

これもかなり最初は精神的に来るものがありますね。

僕の場合はずっと読書をしつづけていると、極論を言うと読書を全くしない人とは会話のネタがすぐにつきます。

具体的に書くなら当たり障りのない話しかできないんですよね。

で、往々にしてそういった会話が僕にとっては全く楽しくないんです。(別に意識高いとかそういうわけではなく、ただ楽しくないんです)

なにか深く人生について考えたり、抱えている漠然とした恐怖やモヤモヤを話してもそこから何も話が広がらないんですね。

もちろんただ聞いてもらえるだけでいい、という人もいます。

しかしただ聞く、というのも僕は結構難しいことだと思っていて、相手が何を言いたいかを瞬時につかみ取らなければならないんです。

これって読書をするときに顕著なんですが、この筆者はこの章や節で何を言いたいんだろうかと意識しながら読むことに似てるんですよね。

それゆえに話を聴いてもらってよかったなと思うのは、自分が何かを話し、それに対して自分では気づけなかった視点に気づかせてくれてたときなんかですね。

 

そしてもう一つ勉強すれば話が合わなくなる理由は、「勉強すれば自分なりの考えがどんどんついていくから」だと僕は感じています。

もちろんその自分なりの考えというものは勉強を続けていくことにより刷新されるものであるんですが、人と話をして変わるということはほとんどないんですね。

そしてもっというと相手も自分なりに勉強している場合多くが「正しさの押し付け合い」になって会話が全く楽しくなくなるんです。

その相手からの理論と、自分なりの理論がぶつかり合うのが僕はすごく嫌なんです。

(この感じが好きだという人も世の中には多いみたいですが💦)

 

そういう意味でも勉強というのは真に孤独に一人でたんたんとすることだと僕は考えています。

そしてたまに自分の話を受け入れて聞いてくれてそこに新たな気付きを与えてくださる人に出会えれば万々歳です。

 

自分で自分を受容する

孤独を受け入れ、勉強や読書に励むための秘訣は、

「自分で自分を受け入れること」だと僕は考えています。

自分のやり方、自分の理解度、自分の知識度、それらを人と比較することなく、自分で得たものなんだからまずはそれらに自信を持つ!とでもいいましょうかね。

どうしてもこの理解でいいのか、こんなんでいいのか、と不安になります。

しかしそれでも進んでみる。

もっというと僕が言う勉強の意義は、分の得た理解でどう世界を解釈していくか、その方法を身に着けることにある、といっても過言ではありません。

 

そういう意味では人と比較することが当然な受験勉強と、僕の言っている勉強は一線を画するものになります。

 

自分の興味のあることだけをやっていい

あえて言いますが、僕は勉強なんてのは「自分の好きなことを興味の赴くままに好きなようにすればいい」と思っています。

それゆえに、好きなように好きなやり方で勉強をしたら当然その得た知識や考え方を他者に披露した時に間違いを指摘されることもあるかと思います。

しかしそれでいいのです。

間違えて当然なんです。

間違いなんてのはいわば相対的なもので、その人にとっての僕が間違いに映っただけにすぎないんです。

間違いを指摘されても、自分とあなたは違う人が再確認できました^^

くらいにとどめておくのが吉です。

勉強は自分がこの世界を自由に、楽しく、わたるためにするものです。

いやいやさせられるものでは決してないです。

 

 

今日のブログは以上です。

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!^^

 

なにをもってコロナ騒動が収まった、というのだろうか

おはようございます^^

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4月に入ってからコロナウイルスの勢いがさらに増したような気がします。

実際増しています。

アメリカなんかは聞くところによると、ニューヨークなんかでもほぼほぼ人が出歩いていないらしいです。

日本でも先日東京で1日の感染者数が100人近くいったりと、まさに次は我が身の状態だなと感じています。

 

僕のいる九州でも全部の県で感染者が出ています。

イベントもほぼすべてが中止の状態。

 

イベントの再開は多くが、「コロナ騒動が収まってから」となっていますが、実際何をもってコロナ騒動が収まったというのでしょうか。

 

(ここで少し話はずれるのですが、どうしてイベントは中止になるのに仕事はあるのでしょうか。毎朝満員電車に揺られて仕事に行くなんてコロナウイルスに感染しますよと言っているようなもんです。なぜ仕事はやすみにならないのでしょうか。不思議です。)

 

 

①ウイルスの直接的な対処法が見つかる

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ワクチンができる、って感じですかね。

実際現在はコロナウイルスにこれを投薬すれば必ず治るといった治療薬は見つかっていません。

ゆえに治療薬が見つかれば、コロナ騒動が収まった、もっと正確に言うなら、収まりに直進することができる状態と言えそうです。

ただ実際はできても、現在のマスクのようにそれが感染した人全員の手元に行き届くかどうかはわかりません。

 

②ウイルスが自然消滅する

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とはいえ、実際自然消滅なんてまあ無いと思います。

インフルエンザも流行時期は過ぎ去っても、ウイルス自体は毎年必ず存在して、必ず感染者が出ているので。それと同じですね。

言うなれば、コロナウイルスがあるにはあるけれどそれが脅威ではなくなった、とするのが疑似的な自然消滅と言えるのかなと思います。

そのためにも僕はやはり①のワクチンの登場、医療制度の向上が必須だと考えます。

 

③長い間新しい感染者が出ていない

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一言でいえば、こうなってくれれば万事解決なんです。

しかしその時にたまたま新たな感染者がでていないだけでしばらくするとまた出始める可能性がないとは言えません。

そうなるとやはり、根本的解決とは言えないので、①の投薬的対処が必要になってきますね。

 

 

結局、考えても、「早く効果的な薬が発明されますように。医学で撃退できますように。」くらいのことしか思い浮かびませんでした。

ただ暫定的にも騒動の終息へと歩を進めるためにも、マスク必須、手洗いうがい忘れずには心掛けます。

というかマスクをまじでどうにかせんと。

ほんと洒落にならんたい!

 

皆様もどうかご無事でお過ごしください。

 

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!^^

 

ps.

こんな時期だからこそひきこもることは最適です!

ひきこもり大肯定たい!!^^

 

挨拶の力!~人見知りほど挨拶重要!~

おはようございます^^

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挨拶ができれば人見知りでも気にかけてもらえる

僕は発達障害の特性の影響もあってか、仕事がとにかく遅いです。

指示も1度じゃ理解しきらんし、行動もおそい。

一度バイト先の上司に「お前を雇うより、(仕事の早い)○○さんのシフトを増やした方がいいわ」とも言われたことがあります。

 

そんな僕ですが、なんとかバイトを続けてこれた大きな理由の一つとしては

 

誰よりも大きな声で明るく挨拶をすること

 

を心掛けたからだと思っています。

 

薬局で働いていた時は、控室に入るときにドアをノックし大きな声で「おはようございます!」とはきはきいう。

帰るときも、しっかりと「お先に失礼します!お疲れさまでした!」という。

 

農家で働いていた時も、だれよりも仕事は遅かったのですが挨拶だけは腹の底から声を出していました。

特に農家のような早朝から体を動かすところだと朝の挨拶が自分にとってもいい目覚ましになるんですよね^^

おかげでいろいろと周りの人には気にかけてもらいました。

 

この時僕が仕事が遅いことを理由にいじけたり、卑屈になっていて、周りの人から距離を置くと余計に誰からも接してもらえなかったと思います。

 

挨拶をされて嫌な気分になる人っていないと思うんですよ。

だからこそ相手をいい気持ちにさせる最も簡単な挨拶をしない理由がないんですよ。

 

最初のファーストステップの挨拶は頑張ればどんな人でもできると思っています。

もちろん性格が悪くて挨拶をしても無視をしてくる人も中にはいます。

が、そんな人に負けずに挨拶しなくならずに、挨拶を続けてみてください。

必ずいい効果があります。

 

今日もばちこりと挨拶してきます!

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!^^

 

 

考えてもわからないことは考えない

おはようございます^^

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今日は「考えてもわからないことは考えない」というテーマです。

以前にも考えないことや、気にしないことについてはブログにしましたのでよければそちらもぜひ読んでいただければ幸いです^^

 

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 完璧主義ゆえの考えないことによる不安

このブログでは再三再四書いていますが、僕はわからないことがあるとすぐに不安になります。

これでいいのかな、こんなんでいいのかな、誰かから欠点を否定されないかな、とかとか、

他にも、わかってないってことがわかってるならわかるようにしなければだめなんじゃないの!?とか、

 

とにかく常々わからないことをなくすという口実を元に、その実弱い自分、できない自分をさらけだしたくないために、僕は考えることにより不安を回避しているんですね。

 

この不安の源泉にはやはり「完璧主義」があって、

他人から欠点を指摘されると(クソみたいな)プライドが大暴走して、プライドが傷つけられたあ!と落ち込むんです。

ほんと小さなプライドのために、人の目を気にして、考えに考えて、その実行動に起こせないビビり野郎なんですよね。

 

あるとき気づいた、「考えなくても死なない。否定されても死なない。」

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あるとき、まさにふっとしたときに、思ったんです。

「考えなくても別に死にはしねえよな。他人から否定されても死にはしない。もちろん物理的な被害や、金銭的な被害を受けるというのなら話は別だけれど、しょせん俺の場合は小さなプライドを守るためだけの話。え、これ無駄じゃね??」

 

実際無駄なんですよ。

世の中に失敗を恐れずどんどん何か挑戦をし続けている人って、

そもそも失敗するかどうかを考えてすらいないんだろうなと思います。

ただ難しいこと考えずに動いているだけ。

というのも失敗するかどうかなんて考えても究極のところはやってみらんとわかりませんけんね。(ほんとそればいね。)

 

もっというと僕は自分のことを(小さなプライドのせいもあるんですが)、過大評価しすぎていた節があります。

自分は何でもできる、俺なんだから出来て当たり前、俺なんだから考えたら全部わかるに決まってる!、みたいな。

いやいやちょっと待てよお前何様のつもりね!と言いたくなります。

自分なんて、この広い宇宙の一個人にすぎない。そんな存在が考えたら全部わかるだと??

おいおいうぬぼれるのはよしてくれよ。

そこからでしょうか、僕は「考えてもわからないことは考えない」ほうに歩を歩めるのも生きやすくていいなと感じるようになり始めました。

わからないことはわからない、で堂々としているのは僕は一つの強さだと思っています。

ありのままの自分をさらけ出すようなね^^

 

こうやってブログに自分の考えをまとめて、それを人様に読んでいただくことで自分の心の軌道修正ができるのでブログもいろんな使い方ができるなと身に染みて感じております^^

 

今日のブログは以上です!

今日も皆様の一日が良き日でありますように^^

ではまた!

 

 

 

わかりあえないからこそ、些細な言葉でうれしくなる

おはようございます^^

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 一言の共感でうれしくなる。

このブログを書いているのは3月30日の月曜日なんですが、

今日通っている就労支援で今後のことについての面談だったのですがその際に、うれしい言葉をいただきました。

「桂木さんはきっと理解されない苦しみってのを抱えてきたと思う。

自分も桂木さんのことを理解するのはできないけれど、理解されない苦しさというのはわかる。

桂木さんはその理解されなさをバネにしてすごく今しっかりされていてわからないなりに自分が描くビジョンへと歩をすすめている。

理解されない苦しみでもがき戦った人には人として深みが生まれる。

まだまだ若いし、きっと桂木さんの使命にあったことにたどり着ける。」

 

すごくうれしかったですね。

聞く人が聞けばただいい言葉投げかけられただけじゃん、という風に見えるのかもしれませんが、それが大きいんです。

僕が社会にでて感じていることの一つに、「がんばっても結果を出さなきゃ認められないのが社会という場所」という認識があります。

だからこそ今回のように、結果ではなく頑張っている過程を、もがき戦っている今この時を他者から肯定されるというのはこのうえない喜びなんですね。

 

僕は人と人は決してわかりあうことはできない、というスタンスでいます。

もっというとわかりあてるかどうかなんて「人のふるまいでしか判断できない」ということですね。

うなづいてくれたり、共感を示す言葉を投げかけてくれたり。

その時実際相手が共感していないのに共感したふりをしているかどうかなんて決してわからないわけです。そもそもそんなことを問うたってわからないのだから意味がないのです。

結局わかり合えるというのは、肯定をしめすふるまいをする程度のものでしかないんだなと思っています。

 

しかしだからこそ、実際に言葉をかけられ、肯定されると嬉しくなります。

実際にお相手の方がどう思ってるかなんて関係ありません。

ただ、こうやって言葉をかけてもらえる、そのことがうれしいんです。

 

生きやすさの秘訣の一つとして、僕は「相手を疑うより、信じる」ということが街が気なくあると思っています。

こうは言ってるけど本当は全くそんなこと思ってないんじゃないか、とか、

おべっか使おうとしているんじゃないか、とか、

そんなこと考えだしても決してわかりませんから。

それならそのまま素直に「ありがとうございます」と言えた方がお互いに気持ちよく幸せになれると思うのです。

 

些細な誉め言葉の力は偉大です。

 

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!^^

生きてるという確かな手ごたえなんてそもそもない。ただ生きるだけ。

おはようございます^^

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<確かな手ごたえ>を追い求め続けた

僕は記憶が確かならば中学生になり始めたくらいからずっと「絶対」や「確かなもの」を追い続けていました。

もっと細かく書くなら、<自分が完璧に、100%納得できるもの>を追い求めていました。

僕は何分理解の悪い性分なもんですので、いろんなものに「世間でいう屁理屈、という名の自分の中での理屈」をつけていました。

 

中学になったころから小学生の時と比べて、急に勉強が難しくなってついていけなくなったってのも大きいとは思うんですが、どんなことに屁理屈を付けていたかというと以下のような感じです。

  • 数学の授業の時、絶対答えは決まるっていうけど、それほんとなのかな?悪魔にだまされてるんじゃないの?
  • 僕だけみんなとは全く違った風に言葉の意味を認識してて、それなのにたまたまコミュニケーションがうまく成立しているのかもしれない!
  • どうして人は、理屈を求めたがるのか。その理屈がほしい。
  • 英語と日本語なんて全く違うのにどうして「訳する」ことができるんだろう。そもそも言葉を別の言葉で表すなんてできるの?

などなど・・・

いや、これはほんとほんの一部にしか過ぎないんですが、

とにかく世間でいう正しいこととか、学問の正しさとか、に対して僕なりに理屈をつけて「でも、それは僕にとっては正しくないように感じるなあ・・・」ってなって<本当に僕が屁理屈つけることなく絶対に正しい、確かなもの>を追い求めていました。

 

自分の存在が不確かで不安でしかなかった

まあ、今もまだ追い求めてるっちゃ追い求めてはいるんですが、今の段階で過去の自分を振り返ると、とにかく自分という存在に絶対の根拠がほしかったんでしょうね。

俺はここに生きてるんだ!っていう生への渇望?欲求?、みたいな感じでしょうか。

 

いつもどこかモヤモヤしてて、すっきりすることなんて一度もなくて、頭もなんだか常に何かを抱えている感じがして、、

そして自分という存在がどういう人間なのかが全くわかりませんでした。

もちろん今もわかってはいないんですけど。

それゆえに、その時の僕は子どもなりに、世間や学問で正しいとされていることを自分で問い詰めてさらに追及すれば必ず納得できる地点が来る!

と信じ、その納得できたことを積み上げれば安心する、と思っていました。

 

しかしそんなことそもそも不可能なんですよね。

パッと考えてもわかりますが、たとえその完璧に納得できた!と感じても、本当に納得したの?とは問えますからね。

それにそもそも「完璧に納得した!」ってのもどうやってわかるんでしょうかね。感覚なんでしょうか。

こう考えるとよくわかりません。

 

自分なんて存在はそもそも不確かなもの

ここで一冊の本から文章を引用します。

引用する本は南直哉さんの『心が楽になる生き方』からです。

禅僧が教える心がラクになる生き方

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「自分」とはなんでしょうか?

「体」かというと、そうではありません。体の細胞は、3か月もすればすべて入れ替わります。そうすると、それはもう「別人」です。

では「心」が自分かと言えば、これもまた証明できる話ではありません。

「”昨日の心”と”今日の心”が同じだと言える根拠は?」と尋ねられると、答えに詰まるはずです。

そもそも、「昨日の自分」と「今日の自分」が同じだと言える根拠は、2つしかありません。

それは、「自分自身の記憶」と「他人からの承認」だけです。

 

僕の記憶がもし仮に全部なくなったとしたら、それはもう「僕」ではない気がします。いやもちろん「僕」なんだけど、「桂木大輝」ではない、といった感じでしょうか。

そして他人からの承認は、もし明日周りの人間がすべて、僕のことを別人のAさんだと言い出したら、僕はきっと気が狂うでしょうね。それかAさんとして生きていくいくことを覚悟するかと思います。

 

そして続きにこう書いてあります。

大げさな話ではありません。そのくらい「自分」とはもろいものです。

私は「私」であるという記憶。

そして、他者から「私」だと認めてもらうこと。

この2つのどちらか、あるいは両方を失ってしまったら、自分であることの根拠は消え、「私」はその場で崩れてしまいます。

 

自分の存在の確かさを求めていた僕にとって、

そもそも自分の存在なんてもろすぎるほどもろいんだ、という文章はいい意味でかなり効きました。

そもそもが不確かなんですね。

これを知ってから、少しずつ世の中の事象に対し、モヤモヤしていても、そもそも自分の存在すらモヤモヤして不確かやけんな~、と思えるようにはなってきました。

言葉の確固たる意味も、絶対的な正しさも、たった一つの真理も、そんなものはあると思えばあって、ないと思えばないくらいの、人によって違うともいえるかもですが、すごく不確かであやふやな何が何だかわからないものなんでしょうね。

 

さて、生き続けよう

そうなると、もう後は生きるだけですね。

自分の不安や、モヤモヤや、恐怖や、生きづらさとともにこの生を全うすることが今の僕の課題です。

 

今日は以上です。

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!~~

人の目なんか気にしても、堂々としてりゃ十分たい

おはようございます^^

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 人の目は気になるのが当たり前

過去にもこのブログで人の目に対する記事を書いたので参考までに載せておきます。

 

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今回、また新たな視点を言語化できたので記事にします。

 

皆様は人の目気になりますか?

僕はめちゃくちゃ気にします。

変に思われてないかな、頭おかしいやつって思われてないかな、などなど言葉にすれば気にしたところでどうしようもないことなんですが、それでも気にしてしまいます。

 

僕は思いました。

そもそも人の目なんて気になって当たり前なんです。

人の目が気になる理由を本気で原因解明しようと思ったら、それこそ日本の文化の歴史を紐解いたり、日本社会の成り立ちをみたりととても大変です。

とはいえ、実際に人の目を多くの日本人が気にしているというのは紛れもない事実であります。

 

僕はここで発想の転換を思いつきました。

「どうしたら人の目を気にならなくするか」ではなく、

「人の目はどうしたって気になる。なら気にしたうえでどうふるまうかを考えよう」と。

 

ぶっちゃけ言ってしまえば言葉遊びみたいなもんなんですけど、それでも言葉を変えることにより意識の持ち方に差があるのなら、言葉遊びでも効果ありです。

 

①気にしたうえで堂々とする

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一言でいえば、開き直りですね。

ただ僕開き直りってすごく効果的だと思うんですよ。

 

「はい、確かに変なやつで、変わってて、多くの人から変人と思われています。で、それで?

多くの人の目が気になる人は、

根底に「人から変な人だと思われたくない」という意識が日本海溝の溝ほどの深さで刷り込まれているみたいです。

まあ、僕もそうなんですけど。

それでも僕は思われたくないけど、まあ思われてもいいや!死にはしねえ!って感じで矛盾はしてるんですが、開き直り精神で「どうでもいっか」と思うことにしています。

 

実際どうでもいいですからね。

他人にどう思われるかなんて。

人から変なやつだと思われても死にはしないけど、人から変なやつだと思われることを心配しすぎて体を悪くして死ぬ可能性はありますからね。

人の目を気にしても堂々と開き直れたらそれだけで十分です。

僕はそう本気で思ってます。

 

②自分のことを「変なやつ」と思ってくる相手を見下す

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開き直るお勧めの方法としては、

「変に思ってくる他者を、しょせん思うことしかできない行動に移さない奴」と見下すことです。

実際、影口を言ったり、悪口を言っている人のほとんどが自分のしたいことを行動に移していない人ばかりです。

そもそも有限の人生の中で他人の悪口をする時間なんてそもそもないはず。

 

そして見下すのと同時に、僕は自分のことを「実際に行動に移したから(自分のやりたいようにやったから)変に思われたんだ。これは行動に移せた証なんだ。」といいきかせています。

 

ただ中には、自分の行動ではなく、自分の身体的特徴や、変えようのないもの、変えたくても変えられないもの、変えにくいものに対して心無い言葉をかけてくる人もいます。

そんな場合は、そんなこと言う人たちとは即刻縁を切るのがベストです。

心無い言葉を投げかけてくる人ってどこでもいます。

そんな人の視線を気にする必要性は一切ないので。

そしてそんな人と縁を切ったところで人生に何の悪影響もないです。

 

③決め手は「そのままの自分を受容できているか」

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結局は人から変に思われようが、悪口を言われようが、自分が自分のことをそのままでいいからね、とOKサインを出せれば人の目なんてどうでもよくなるんです。

ただ、人間というのは社会的な生き物ですからね。

他者からの承認なしに自分だけで自分のことを肯定しきるというのは少し無理があるかもしれません。

しかし、それでも需受容しようと努めることはできます。

自分を実際は愛せなくても、愛そうとアクションを起こそうとすることはできます。

僕もいじめ経験や、親からの暴力などもあり、自分を愛することができるためにはまだまだ時間がかかりそうです。

それでも、日々人の目が気になるときに「自分は自分だ。俺はよくやってるよ。まじですげえよ。大丈夫。死にはしない。こんな頑張っている俺が、俺は大好きだ。」と言い聞かせることはできるので言い聞かせています。

要は自分がどういう心構えでいるかってことがやはり大切たいね^^

 

 

今日のブログは以上です。

今日も皆様の一日が良き日となりますように!^^

ではまた!^^

 

「生産性」という言葉に苦しめられるときの対処法

おはようございます^^

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僕たちは生産性がないと生きてはだめなのか

今の時代「生産性」という言葉を聞かない日はありません。

何をするにしても、生産性をあげろ、生産性を追い求めろ、生産性、セイサンンセイ、せいさんせい・・・・・・

YouTubeで何か勉強のための動画を検索すれば、すぐに生産性関連の動画が腐るほど出てきます。

「○○すれば生産性は爆上がり!」、「○○しておけば生産性UPは間違いなし!!」みたいなですね。

 

生産性という言葉を使い、実際には何を生産しているんでしょうか。

お金、商品、アプリ、、いろいろあるかと思います。

これらを生産するために対価となっているのが「時間」ですね。

つまり生産性とは、「同じ時間内で、どれだけ多くのものやお金を生産できるか」ということですね。

(んなことわかってるわ!と思われる方も、僕はこうやってかみ砕かないとわからないのです。お付き合いお願いします。)

世の中で意味がある行為とされているのは、概して「生産性がある行為」と言い換えることができます。逆に言うと生産性のない行為は無意味として片付けられます。ああ、さみしい。

 

僕たちは人間だ

でも、僕たちはロボットじゃありません。

生身の人間なんです。

生産性を追求することが人生の目的なら、僕はすごく寂しいと思います。

人間なんだから、生産性が高い人もいれば、低い人もいる。

僕は、このことって、足の速い人もいれば、遅い人もいるってのと同じ次元の話なんじゃないかなと思っています。

 

そんなに生産性が大切なのか

しかし今や多くの人が生産性を追い求め、やっきになり、なんなら生産性がない(日々何も生産をしていない)という理由だけで自殺を考えている人もいるほどです。

そんなに生産性が大切なのでしょうか。

僕はそうは思いません。もっと言うならそう思いたくはありません。

生産性がないことを嘆き、死をも考えるくらいなら、生産性なんかなくてもいいから自分の人生を楽しむことに重きを置いた方がずっと人生は楽しいと思います。

 

とはいえ、何かを楽しむためにも、今の世の中は生産性を必要とします。

言うなれば、社会側が「楽しいこと=生産性の先にある」という風に定義づけをしているみたいな感じです。

旅行に行くのも、ゲームをすることが楽しいのも、友達と飲みに行くのも、どれも日々お金や物を仕事やなんやで生産しているから、その報酬としてた楽しめるんです。

生産をせず、日々消費なかりしていると今の社会ではだれに責められなくとも罪悪感を感じるようにできているんです。

もはや生産性の魔の手から逃れることはできないのか、と日々感じています。

「何を生産するのか」、生産性の視点を変える

僕はひきこもり経験者です。今も就労支援に通ったり、居場所づくりの活動はしていますが、定職にはついていません。

ゆえに何も生産せず日々消費するだけの毎日をすごす苦痛は身に染みてわかります。

そこから僕は一つの対処法を思いつきました。

それは、

「何を生産するかは自分で決めていい」

ということです。

 

僕はもう半ばあきらめきっているのですが、社会が用意する生産リストの中のものを生産する能力は今の僕にはほぼないです。

もちろん努力すれば身につく可能性もあるとは思いますが、「努力する」ということに関しては書き始めると、努力できるできないの発達特有の話になるので今回は割愛します。

僕は社会で求められているものを生産できない。

しかし、何かを楽しむためには自分が何か達成した、何かを生産したという事実が重要になってくる。

そのためには自分が何を生産できるかを考え、それを愚直に生産し続けることが大切なんじゃないかなと僕は思っています。

 

例をあげるならこのブログですよね。

僕はもともと自分のうちに抱える生きづらさや、葛藤をたくさんの人に知ってほしいという思いがあったので、ブログを生産するという行為はとても自分に合っています。

(ちなみにこの記事で100日毎日更新達成!)

他には、ほぼ毎日行っているツイキャスなんかもそうですね。

僕は人前で話すのが好きなのでそれをオンラインに適用した感じです。

それと就労支援で勉強しているプログラミングですが、これもきちんと身につけば結構な生産性になると思います。しかし特性の影響もあり、ほんとゆっくりしか前に進めないのでまだかなり先にはなると思います。

 

自分で決めたことを自分で生み出していく、すると完全にではないですが、自分も生産をすることができると自信を持てます。

1歩1歩これからも僕なりに生産していきたいと思います。

 

今日も皆様の1日が良き日でありますように!

ではまた!

 

ps.

平日の昼間に何もせず、部屋で寝ているときに襲ってくるあの虚無感。

あれこそ僕は生産性を追い求め続けている社会に身を思いてるからこそ来る虚無感だと思っています。

虚無感であり、焦燥感もあり、無気力感もあり、、、、

とにかく自分という存在がなんてダメなやつなんだと感じられるあの瞬間。

僕の生きづらさの大きな原因は、「社会が生産性を求めること」にあります。

今もずっと思っているのですが、いつか何も考えず自給自足の生活で、大切な人と穏やかに暮らしていける暮らしがしたいなと。

落ち着いてゆっくり急がず慌てず、紅茶でも飲みながら本を読む毎日。

そんな生活を送れたらなと思わない日はありません。

居場所~特性を生かす道~の今後の活動について

おはようございます^^

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皆様お世話になります。

大分居場所~特性を生かす道~広報担当のtigubaguこと桂木大輝です。

この度コロナウイルスの影響により、

「居場所~特性を生かす道~」を無期限延期とします。

再開はコロナウイルスによる騒動が収まってからとします。

毎月のおしゃべり会、漫才、コントなど楽しみにしてくださっている方々には非常に申し訳ございませんが、今回の騒動を受けこのような運びとなりました。

何卒ご了承お願いします。

いばとくキャスは引き続き継続しますのよろしくお願いします。

 

居場所~特性を生かす道~の活動休止のツイートも載せておきます。

 

再開次第またお会いしましょう!

 

何をしたいか、ではなくどう生きるかを考えてる

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 考え続けること

多くの人は「人生で何をしたいか」を聴いてきます。

もちろん何がしたいかも大切ですが、僕は「どう生きるか」の方が大切だと感じています。

うまく言葉では表せないのですが、人生に対する心構え、のようなものですね。

 

どう生きるかは一朝一夕にわかるものではありません。

わかるためには日々考え、悩み、自分がどう生きたいかという問いと寄り添って生きていく必要があります。

僕がこの問いを抱え始めたのは中学1年生のころからです。

何がしたいかよりも、どういう心構えで、どういうスタンスで生きたいのかがずっと気になっています。

今現在、暫定的に僕がどう生きたいのかを2つ書きますので、皆様の参考に少しでもなれればなと思います。

 

①人として生きたい

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コロナ騒動の影響もあり、「ウイルスよりも人間の方が怖い」と感じている方も多いと思います。

僕もマスクの買い占めをし、転売をいている人を見るにつけ、こういうときだからこそ僕は「人として生きたいな」と強く思います。

人として生きるとは、具体的にいうと「他者を優先できる」ということですね。

しかし他者を優先できるためには自分に余裕がないとできません。

僕も自分に余裕があるときは他者に思いを馳せることはできても、自分が疲れたり、切羽詰まっていたりすると、一気に自分自分となってしまいます。

本当に徳のある人は自分に余裕がないときでも他者を思いやれるのでしょうけれど、あいにく僕はそこまでできた人間ではありません。

この際だからはっきり書きますが、僕は自分に余裕のない状態では他者を優先はできません。やはり最終的には自分がかわいいのです。

とはいえ、人として生きたいという信念も持っています。

そこから僕は、そもそも自分に余裕のない状態を極力作り出さないようにしようと思いつきました。

 

そして往々にして余裕があるかないかは、事実そのものではなく、その事実をどう受け取るかにかかっています。

例えば、遅刻しそうでピンチなとき、街中、駅、電車の中を大慌てで走るとそれだけで他人に迷惑ですし、疲れているから電車の中でも席を譲ろうという発想は浮かびにくいです。

そんな時は、「遅刻しても死ぬわけじゃない。後できちんと謝ろう。」としていつもと変わらないペースで出かけたほうが結果としては吉になることが多いです。

自分の余裕とはそのくらい大切なんです。

僕は自分に余裕を持たせる合言葉として、「大丈夫。死ぬわけじゃない。」を多用しています。焦っているときほど一息ついて心の中で唱えてみてください。効果抜群ですよ。

 

②今を生きたい

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今を生きる、って言葉自体は多くの人が聞いたことあるとは思います。

僕も今を生きよう!と自分を前向きにさせる言葉として使ってきました。

しかしよくよく考えると、「今を生きる」ってのはどういうことかを考えるとわからなくなります。

時間について研究されてる研究者なんかは、「今なんて存在しない!時間なんてのも存在しない!」という人もいるくらいですから、そのくらい「今」というのは奥が深いんでしょうね。

僕はしばらく考え、今を生きる!ってのは僕がしっくりくるニュアンスでは、「未来を思わず、過去を嘆かず、不安に足を絡めとられず、淡々と日々のやるべきことをする」うなニュアンスが一番しっくりきました。

すごく単純なことなんです。

ただ目の前のことをやる。不安に絡めとられて足が動けないと感じても、手を動かし、体を動かし淡々と日々の雑務をこなす。

頭の副題と矛盾するようですが、考えるよりもまずは体を動かせ、ということを僕は大切にしたいと思っています。

そして今を生きる、とは考えすぎて身動きの取れない状態を脱し、目の前のやることを淡々と体を動かしこなしていく生き方、だと思っています。

 

考えるというのは、何も机にしがみついてうんうん言わせることだけが考えるということではありません。

行動を起こし、動きながら、生きることこそが「考える」ことなんじゃないのかなと今は思っています。

 

最後に

今現在はこの2つを大切に生きていけたらと思っていますが、これも本当に暫定的なものです。

僕は自分の心、気持ちすらよくわかりません。

自分がこうありたいっていうのを何とか言語化してみましたが、それでも完全にしっくり来た感じはしません。

これから先生きていく中でどんどんどう生きたいか、という問いに対する答えは変わっていくと思います。

そうやって迷い、悩み、考えして、生きていくのが人生なのかなとぼんやり思ってます。

 

今日も皆様の一日が良き日でありますように!^^

ではまた!^^

徒然なる読書日記part6 南直哉『老師と少年』

おはようございます^^

こんにちは!こんばんは!

tigubaguこと桂木大輝です。

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久しぶりの徒然なる読書日記シリーズです!

前回の記事は以下です。

www.dotama-kotoba.com

 

 今回は南直哉『老師と少年』を紹介します!

老師と少年 (新潮文庫)

老師と少年 (新潮文庫)

  • 作者:直哉, 南
  • 発売日: 2009/11/28
  • メディア: 文庫
 

 なぜ人は死ぬのか。私とはだれか。こころとはなにか。

 皆さんも一度はサブタイトルにあるような問いを考えたことはありませんか?

僕も昔は「死んだらどうなるのか」、「なんで生きてんだろ」とか考えていましたが、今はこのような問いは姿を変えて別の問いとして残っています。

今僕がずっと気にかかっているのは、

  • こころとは何なのか?そもそもそんなものがあるのか?(そもそもものですらない?)
  • 他人にこころはあるのか?こころ(意識でもいいけれど)があるのは僕だけでほかの人間にはこころはないのではないか?

の2つですね。

ずっと気になってもやもやしているのですが、考えだしたら泥沼にはまるので、考えると考えないの瀬戸際をいつも思考の中で歩いている感じです。

 

今回紹介する南直哉(みなみ じきさい)さんの『老師と少年』にはそんな僕と似たような問いを持つ少年と、その少年と真剣に対話する老師とのやりとりが書かれています。

 

言葉でながなが説明するよりも、いつものように僕が感銘を受けた部分を2つ抜粋して僕のコメントを書いていきたいと思います^^

 

みんなが考えないようなことを考えてしまう人

「僕には他人が当たり前だと考えていることがわからないのです。当たり前の世界には問うてはいけないこと、考えてはいけないことがあるのですか?けれども僕みたいに、それがどうしても忘れられず、考えずにいられない者もいるのです。

(中略)

死ぬとは何か、それが知りたいのです。僕がいなくなる。消えてしまう。それはどういうことなのか。知りたいのはそれなのに!!

師よ!大人はわからないのです!!答えが、ではない!大人は僕の質問が何を意味しているかのかわからないのです。それさえわからないのに、死んだ後のことは(天国に行くとか、お星さまになるとか)わかると言うのです!」

「友よ。違うのだ。大人は君の質問をわかっているから、死んだ後の話をするのだ。大人も一度は君と同じ事に気づく。しかしそれは決して答えられない、とても危険な問いなのだ。だから隠そうとする。自分もそうされたように、隠そうとする。大人になるとは、そういう問いを隠していくことなのだ。隠すことで当たり前の世界はできているのだ。

 少年は、「死ぬということ」がわからずにその問いに憑りつかれていました。

しかし少年は必死にその問いを解こうとするが、多くの大人も一度は考えたことのある問です。

僕自身もよく考えました。

しかしこの現代社会を(いい意味でも、悪い意味でも)そつなく生きていくには、このような問いを隠していくことが必要不可欠となります。

特に社会の一員となりばりばり働き生産性を追い求める生き方をするならばなおさらです。

僕も自分が気にかかっている問いは人には話せません。話したとしてもはぐらかされるか、面白いこと考えてるねと言われるか、はたまた頭のいい人に「それはこういう理由で~」と理攻めされるかのどれかだからです。

自分の問いを切実に抱え、「自分もその問いを今現在も気にしてる」って人とはおそらく出会えないと思っています。

なぜなら自分自身の問いは誰のものでもない、自分だけのものだからです。

 

「本当の自分」を求めて・・・

「師よ、本当の自分が知りたいのです。今の僕は僕ではない!人々の中で、人々の前で、求められるようにふるまい、そうあるべきようにふるまい、そうあるべきようにふるまう僕は、僕ではない!それは仮の嘘の僕なんだ!」

「君は『本当の自分』ではない。だから、『本当の自分』はわからない。だから、本当の自分を永遠に知ることはできない。会ったことのない人は探せない。

(中略)

人は皆、当たり前に『私』という。しかし、この言葉は何を意味しているのか?友よ、君もまた簡単に『僕』と言う。それは何を指しているのか?」

「それは・・・・」

「なんだ」

「・・・・」

「体か?」

「いいえ」

「心か」

「そうかもしれません」

「いつの心か」

「今のです」

「今はもう過ぎた。過去の心はすでにない。未来の心はまだない。そして過去の心と今の心と未来の心が、同じ『僕』の心だと、なぜ言えるのか。」

「では、なぜ僕はいつでも僕なのでしょうか」

「人は思う。変わらぬ『私』を支える確かなものがあるはずだ、と。だが、それは、どのようにしても見つけられない。なぜなら、『私』という言葉は、確かな内容を持つ言葉ではなく、ただある位置、ある場所を指すに過ぎない。

「その場所はどこですか?」

「『あなた』や『彼』ではないところ、『いま、ここ』だ。『私』はそこについた印なのだ。」

 <わたし>なんてのは存在しない。

確かに考えだすと、私は私だ!って言ってる私って誰?

ってなってどんどん後ろに下がっていってしまいますもんね。

なんかここらへんのことは昨今のいろんな哲学者も言ってますよね。

「<わたし>とは言葉にすぎない」とか「社会的に作られた産物である」とか。

まあなんにせよ、<わたし>なんて摩訶不思議なものは存在しなく、そうなると<本当の自分>ってのも存在しませんね。

というか、「自分」と「本当の自分」の違いもわかりませんね、こうなると。

じゃあ今考えている<この意識>は何なんだ?と疑問がわきますね。

これも考えだすと泥沼なんでやめておきます。

 

それよりも僕はこの個所を読み、<わたし>なんて存在しないと聞き、少し楽になりましたね。

「本当の自分」なんて存在しないのだから、日々ただ生きるのみです。

もちろんそのうえでも「本当の自分」を考えることはあるでしょうけれど、それでも今やっていることに淡々と集中し、意識を外に向ける、といいますか・・・

うまく伝えられませんけど、少し楽になったのは事実です。

 

今回はこの2か所を紹介しましたが、この本自体とても薄くかなり読みやすいので、

似たようなことを一度でも考えたことがある人にはおすすめです^^

 

今日も皆様の一日が良き日でありますように!^^

ではまた!^^