「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。このブログは普段僕が感じているまたは感じた、ちょっと哲学的なことを徒然なるままに綴ったブログです。お時間のある方は是非読んでくださいな。

tigubaguの自己紹介 僕がどういう人間か part2 高校入学~不登校・ひきこもり編

こんにちは^^

tigubagu(@tigubagu0123)です。

開けましたね!GW^^

今日からまた「普通の毎日」が始まるわけですが、

僕はこういう普通の日は、1日の中にちょっとした楽しみ、喜びを見つけます^^

ちかくにおいしく安いパン屋さんがあるんですがそこのパンを食べよう、を楽しみにします^^

 

 

 

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さてさて今回は前回の自己紹介の続き

高校入学~不登校・ひきこもり編

 

では、どうぞ!

 

①高校入学

中学の時点ですでに学校関係とは手を切りたかった俺であったが

ほんと今思えばなぜかわからないけれど、高校に進学した。

(なぜかわからないけれど、なんていうが本音は一つ。 周りに流されただけだ。 みんなの列から離れるのが怖かった。それだけだ。)

 

高校に入ってもpart1でかいた哲学観は大健在でもう授業に集中できるとかのレベルじゃなかった。

このころは自分と他者が見ている世界の相違、なるものが気になってとにかくなにもかもがこわかった。

このことはこのブログを書いた一番初めの記事に詳しく書いてあるので興味があればぜひ読んでみてほしい。

 

www.dotama-kotoba.com

 

軽く話すと、

「自分と他者でコミュニケーションはとれているように思えても、頭の中で全然ちがうことを考えているかもしれない」と思ったり、

 

「同じ言葉でもその言葉の意味を聞いたら、自分と他者ではそれこそ全く違う返答になるかもしれない。それなのにコミュニケーションが取れている・・・・!

さらに今まではコミュニケーションが取れていても、次の瞬間にはなんでかわからないけれど取れなくなるかもしれない・・・・!

(気分は隠れキリシタンのようだった。 たぶんこれ伝わらない。)」

 

こういうことがとにかく不思議、もっというと恐ろしかった。

 

哲学の中では独我論とか、言うみたいなんだけど

そんな名前はどうのこうのよりもこういうことが考えられる、ってのが恐ろしかった。

 

高校にもなると自分をほんの少しではあるが客観視なるものができてきて、

自分が考えているようなことのほとんどを周りの人たちは考えていないということに気付き始めた。

 

周りの人たちが考えているのは、、

「テスト勉強したか」

「好きな子がいるけど告白できない云々」

「次の授業は眠れるから楽だなあ」

「帰りに○○寄っていく」

などなど

 

など俺からしたらすごく遠くにいる生物のように感じられた。

(この感覚は今もあって、健常な一般人は普段俺の考えているようなことは感がていないんだなと、今なら肌身として実感できる。)

 

が、とはいえ高校一年のときは

まさに高校デビューという言葉がしっくりくるくらい勉強(ここでいう勉強とはテストで点数を取るためにイヤイヤやらされている勉強)はし、

一般の高校生という「普通」に染まろうとした。

 

しかし人間、性格というのは形状記憶のようなもので

すぐに自分は無理をしているんだなと気づくことになる。

 

そしてまた俺みたいな人間が無理して普通に合わせようとすると

周りからはそうすること自体が「異端」にうつるのである。

 

高校1年はなんとか乗り切れたものの、ついに高校2年の時に俺の中の何かがぶっ壊れた。

 

自分の高校では(一応の)進学校のため、生徒の進捗具合を図るため高校2年と高校3年の担任は同じという決まりがあった。

 

このときの担任が一言でいうと「人間のくず」だったのだ。

そうまさに人間のくず。

 

と、いうのもいかにその悪行を書くが、

・成績のいい生徒、悪い生徒の扱いがとにかく激しい 見るからにわかるえこひいき

・成績の悪い奴には「くず」「ゴミ」「もう学校来なくていい」などの暴言をはきまくる

・いじめがあってももろ見て見ぬふり

などなど

 

そしてこのときからまた俺に対するいじめが始まった。

今度のいじめはとにかく陰湿だった。

とにかく俺は馬鹿にされたのだ。

 

ただそれはそれでつらかったが、このころ一番つらかったのは担任の暴言によるせいも大きかったのか、

 

「自分のような変わっている考えを持っているやつはこの世に生きてはいけないのか」

 

と半ば強迫的に思い込むようになってしまった。

 

そして誰にも、自分が持っている哲学観を理解してもらえないんだなと肌で感じてさらに自分の殻に閉じこもっていった。

 

そして時は2012年9月、高校2年の2学期が始まるか否かのとき。

 

俺は学校をやすんだ。

 

いや正確に言うともう行かない、くらいの勢いだった。

このときの母親はもう急に息子が学校をやめるだの言いだすから大パニックを起こしていた。

もうなにが何やらわからなかった。

 

その日のうちにおれはうっぷんとした自分の心の中に壁を開けるかのように

自分の部屋の椅子を窓ガラスになげて窓ガラスをバリバリに割った。

 

母親は泣いていた。父親は黙っていた。弟も何も言わなかった。

 

たぶん今後この先俺はどこにも俺をわかってくれる居場所、そんなところはないんだなと身にしみて感じた。

 

②はじまるひきこもり時代

 

窓ガラスの破壊とともに俺のひきこもり生活が始まった。

 

ひきこもっている間は何をしていたんですが?

よく聞かれる。いろいろしていたけど一番してたのは

 

「本を読んでいた」

 

ひきこもり始めた矢先母親が、俺の机の上に

池田晶子さんの『14歳の君へ』という本を置いていた。

 

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

 

 

この本を読み、俺はびっくりした。

世の中には「哲学」という学問がある。

いやそれだけじゃない!この池田さんという人は俺と似たようなことをずっと考えていたのか!!

 

俺は救われた気がした

 

そこから俺はひきこもりながらも夜に近くの本屋に行き、

思想・哲学コーナーなるものがあると知り、

そこの哲学入門書なるものをかたっぱしから読んだ。

 

親もひきもってた俺が本を読む、というのはどこか肯定される行為に見えたのだろう。

本代は出してくれた。

 

ただ入門書とはいえやっぱり何を書いているのかわからないときがほとんどだった。

それでもそのときは自分と似たような疑問を抱え、それをこんなにも一生懸命取り組んでいる人たちが世の中にいるということを知れただけ安心した。

 

いま思い出しても部屋にひきこもっている間本を読んでいたのがいまの俺のアイデンティティに大きく影響している。

 

③まとめ 俺はなぜひきこもったのか

ここで今一度自分のためにも、俺はなぜひきもったのかを整理してみたいと思う。

 

なぜひきこもったのか?

自分を受け入れていもらえる場所がないと感じたから

 

聞く人が聞けば、とても自己愛に満ちた自分勝手な理由ととられるかもしれないが、俺からしたらとにかく切実な問題だったのだ。

 

(ほかにもこの記事では書ききらなかったことで)

→学校という場所にどうしても行く必要を感じなかったから。

→学校に行くと思うだけで吐き気がしたから

(そもそもあんな教室という狭い牢獄に40人近い生物をぶちこめたらそりゃいじめも起こるわと、なぜ誰もわからないんだろう。)

 

今も外には出てるとはいえ、こころはまだまだひきこもりのときと大差ないと思っています。

そんな僕だからこそわかる視点があり、それを皆様にお伝え出来たらなと思っています。

 

 

 

 

さて今回はここまで!

次回は「ひきこもり脱出~大学編」

ぜひ読んでください!

tigubaguの自己紹介 僕がどういう人間か part1 生誕~中学生編

こんにちは。

tigubagu(tigubagu0123)です。

本日2本目の投稿です!

晩御飯にもやし納豆ラーメンを食べることを楽しみに今日も頑張れたと思います!

 

 

さてさてそんなGW最後の日の2本目のテーマは、、、

tigubaguの自己紹介 僕がどういう人間か

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はい!ここにきて自己紹介です笑

 

やっぱりブログを書くにつれて自分という人間を知ってもらうことはとても大切だと思ったんですよね。

 

ツイートで書いてもよかったんですが、まとめてブログの形にしたいと思いブログの形式にしてみました。

 

自己紹介、という形のため今回は語り口調で文を書きたいと思います!

 

①生誕~小学校卒業

関西地方に生を受ける。

母親曰く、俺はほかの人よりもはいはいをするのがとても遅かったらしい。

というか、きちんとはいはいをしたことってあったのか、と言われた。

はいはいの代わりに俺は体育座りのまま後ろ向きに進む、オリジナルはいはいを編み出していた。これは今でも記憶にある。

なんだろう、このころから人とは違う何かも求めていたのかもしれない。

 

幼稚園、小学校は目立ちたがり屋で人前にたってるいわゆる「おちょけもの(おふざけもの)」だった。

 

このころからブログにもちょくちょく書いてある俺独自の哲学観が芽生えていた。

 

「今見ている世界は夢なんじゃないのか」

「母さんは宇宙人が化けている姿でどこかにもしかしたら本物の母さんがいるかもしれない」

「わかるとか、理解するってどういうこと?」

 

これは今現在でもしっかりと俺のアイデンティティの根幹として健在してくれている。

 

どうでもいいけど小学校の時にやってた1発ギャグが、中学に上がったとたん鬼のように受けなくなるのあれなんでだろうね。

 

②中学校~高校1年

はいきました。

絶賛地獄時代。暗黒時代。

まず中学。

皆さんも経験あると思うけど、小学校とはちがいいきなり教科書が堅苦しくなって面食らった。

今まで味方だと思ってた仲間が、新章に突入したとたん実は敵のスパイでしたと翻る、あの感覚だった。

 

そこにきて、上記の哲学観である。

もう問題を解く、授業についていくどころの騒ぎではない。

 

とにかくいろんなことが疑問、疑いになって全く勉強が手につかない。

 

「自分と他人で感じている感覚、見ている世界は違う。それなのにどうして数学なんて答えが一つになる学問があるんだ? いやまてよそもそも答えがひとつになるのもたまたまかもしんねえぞ? もしかしたら次問題解いたときはみんあ別々の答えになってるかも・・・・??? てかなんで人間は計算ができるの???? 1+1=・・・・」

 

「いやいや日本語の文法いうたかて、もうわしら日本語話せますやん。

なんなんこの助詞とかいうやつ

 

「は」の意味・・・・

 

いやいやいや!あんさん、「は」を説明するのに「は」を使ってますやん!

それはかなわんて!・・・・・」

 

 

みたいなかんじでとにかく勉強なんてところじゃなかった。

 

で、、、

 

みんなの前でこういうことを先生に質問する。

変な奴だと白い目で見られる

誤解を解きたくて、俺はまっとうにコミュニケーションできるんだぜとふざけてみたりしたけど、小学校のときとは違い、自我が芽生え始めた中学生に俺のように意味も分からなくふざける兼意味の分からないことを考えている、とにかく意味のわからない尽くしの俺は異質な存在でしかなかった。

で、結果いじめがはじまる。

 

なんともわかりやすいストーリーだ。

いまの学校教育の大欠点でもある、他者を排除するシステムにまんまとひっかかり苦しめられたってわけだ。

 

いじめる内容はとにかく古典的だった。

当時俺は中学3年で、そのとき俺のクラスには体重が110キロもある今考えたらお前中学生でその体重っていろんな意味でお前ダイジョブか、というまさにジャイアン的存在のやつがいた。

(案の定自分の体重を体が支えきれなかったらしくしょっちゅう骨折していた)

 

そいつが一直線にこの変わり者の俺をマークしはじめた。

 

いじめ方はいたってシンプル。

(わかりやすいためにこの体デかのことをジャイアンのJと表現する)

J:なにか命令をする

俺:いやだと返答

J&その取り巻き 暴力をふるってくる 

 

って構図。

 

で、またこの取り巻きが本当に姑息で

遊戯王でたとえるならレベル5で生贄ありのくせして攻撃力1300しかないバニラモンスターのあつまり、とでもいおうか。(わかるかな?)

Jが威張っている横でしか威張れないようなやつらだった。

 

このとき僕のクラスにいたやつらはとにかく見て見ぬふり。

誰も助けよう、声かけようなんて誰もしようとはしない。

ここらへんのことが後々僕の人間に対する不信感に大きく影響を与え始めた。

 

こんなこんなであったが俺は最初のうちは毎日が地獄であったがなんとか学校には行けていた。

しかしついに体がいうことを聞かなくなる。

 

家に帰り次第晩御飯を食べているときにボロボロと自分の意思に反して涙が出てきたのだ。

 

それをみた母が学校に電話しなんとかいじめはなくなった。

(とはいえ筆箱隠したり、死ねという手紙が机の中に入ってたりと陰湿ないじめは少し続いた)

 

もう僕はこの時点で学校なんぞにクソみたいなところで、ここに通っている奴らは全員人間としておかしいと本気で思っていた。

 

そんな僕に大きな決断を迫られるときがくる。

 

次回「高校入学~不登校・ひきこもり編」こうご期待!!

 

 

徒然なる読書日記part2 西野亮廣『新世界』

こんにちは。

tigubagu(@tigubagu0123)です。

GW最終日!!

あれだけ長かったGWも今日で最終日です。

いやすぎてみればほんとあっという間だな!

僕のGWの思い出は、

ターミネーターはやっぱり面白い!」

ひたすらDVDを見てる日が多かったので、その中でもやっぱりターミネーターは安定の面白さでしたね。

 

 ①今日のテーマ

さてさて今回は

徒然なる読書日記part2

 

前回徒然なる読書日記part1の続きです。

 

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今回感想を書く本は、

芸能人でもあり、絵本作家でもあり、実業家でもあり、サロン経営者でもあり、何でもござれのキングコング西野亮廣さんが書いた

『新世界』

です。

 

新世界

新世界

 

 

②要約&感想

まず何といってもこの本は第1章がものすごく読む価値があると感じた。

なので第1章を中心に書いていく。

お金のとらえ方が大きく変わる。 

 

本書を通して貫かれている考えは、

『お金を稼ぎたければ、信用を稼げ』

ということ。

 

お金はまさに信用を数値化したもの、と西野さん(以下著者)は書いてある。

 

著者は自分のしたいことをするためには資金が必要と考えく「クラウドファンディング」を利用している。

クラウドファンディング(英語: Crowdfunding)とは、不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。
wikipedia より引用))

 

お金とクラウドファンディングとは著者から言えば、「お金とは『信用』」であり、「クラウドファンディングとは『信用を換金する装置』」なのである。

 

例えば

僕が「世界を旅して世界のことをみんなに伝えたい!そのためにはお金がいるから皆さん僕に寄付してください!」

といったとする。

 

しかしもちろんのこと今の僕にはお金が入ってくることはない。

なぜなら「僕には信用がない」からだ。

 

しかしここで僕が実際になんども海外に行っていて

なおかつみんなが喜ぶような楽しいブログや、息をのむような素敵な写真をとってきたりと、tigubaguを海外にやると「あいつは必ず面白い何かを提供してくれる」と信用(僕はこれを信頼と呼んでもいいかなと思ってる)がうまれる。

そうなるとこの人にお金を出すと必ずいい形で返りがもどってくる!となる。

 

この本の中には信用を得てのお金はそのあとという考えを貯信時代と呼んでいる。

 

では信用を得るために必要なことは何か。

著者は一言でまとめていた。

それは

 

嘘をつかないこと 

 

僕も最初思ったのだが、

なんだい嘘をつかんことくらいかあ、って思ったのだが、

嘘をつかないって考えてみれば本当に難しいってすぐわかる。。

 

見栄を張りたかったり、そもそも嘘をつかざる状況にえなかったり。。

 

そうここ著者が言っているんですが、

 

「嘘は感情ではなく、環境によってつかされる」と。

 

つまり嘘をつかないためにも、嘘をつかざるをえない環境に身を投じないこと。

 

やはり僕もずっと心に止めていること、

「環境を選ぶことの大切さ」

 

嘘を言わなくてもいい環境

信用が高まる

 

という良い構図になる。

 

 

ただ実際こうなるにはやはり努力が必要だろうし、

そして「続ける」ことが必要だと思う。

信用を得るにも、自分の存在を知ってもらうためにも。

 

続けて信用を得て、そこからお金を得て、さらにそのお金を使い信用を得ていく。

このような流れかなと思う。

 

 

自分のモチベーション爆上がりした本なのでぜひ皆さんも読んでみてはいかがでしょうか^^

 

今回はここまで。

ではまた次回のブログでお会いしましょう!

 

 

完璧・・・・求めてもつらいだけ。

こんにちは。

tigubagu(@tigubagu0123)です。

本日2本目の投稿です。

今回みたいに書けるときは2本投稿もやっていきたいなと思いますので、

何卒よろしくおねがいします!!

 

①今日のテーマ

さてさて今日のテーマは、

「完璧・・・・求めてもつらいだけ」

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僕はまずとかく完璧主義です。

いや、こういうとなにか成し遂げるときに完璧をもとめすごい成果を出している人に思われるかもなんですが、

僕の場合の完璧主義は悪い意味、自分を束縛してしまうほうの意味での完璧主義です。

 

何か一つうまくいかないことがあるとそのことをずっとひきずってしまう

 

例えば

今日一日朝もしっかりと起きれた、

やることもできている、

ご飯もしっかり食べた

調子いいぞ!

ってなっても、

 

ひとつ誰かから注意をされると

ああ、なんて今日はよくない日なんだ、と落ち込んでしまうんです。

 

これだけならまだましです。

  1. 電車に乗るとき混んでいるとだめだと思ってしまう
  2. 本を読んでいてわからない箇所がでてくると自分の頭の悪さを嘆く
  3. 複数人でいるとき会話の輪に入れず自分の社会性のなさをせめる。
  4. 自分よりいつも相手の言っていることのほうが正しいと思ってしまう。

などなど。

あげればほんとキリがないです。

 

 

②完璧主義は減点方式

完璧主義のつらいところは

 

減点方式 

 

ですね。

 

どれだけできたか、自分にはなにがあるか、に目を向けるのではなく、

どれだけできなかったか、自分には何がないかに目を向けてしまう。

 

人間、絶対に完璧な人間なんて存在しません。存在するはずがないんです。

 

そもそも完璧な人間って何でしょうか?

気配りができ、愛想もよく、仕事もできる。そういう人間が完璧な人間なのでしょうか。

いやこれは「社会性」というある一面しかとらえていません。

完璧というからにはまさに「完璧」である必要があります。

世の中で謎とされている謎にすべて答えることができる。

 

例えば「人はなぜ生まれてきたのか」。

この問いに「完璧に」答えるとはもはや何を言っているのかよくわかりません。

世の中で言われている完璧とは「社会性」をもった、そこに限定された完璧なのではないでしょうか。)

 

③完璧主義から抜け出すためには

では、そんな完璧主義から抜けるためにはどんな心構えが必要でしょうか。

僕の経験では

 

あきらめる

 

が一番効果的でした。

 

このあきらめるという言葉、一般的にはネガティブな意味がありますが、

語源は「明らかに見る」となっていて、

もともとは自分には何ができて、何ができないかをきちんと知る、という意味らしいです。

 

あきらめるって、言い換えると「今の自分をありのまま認めること」だと思うんです。

できない自分を、俺にはできるはずだ!とはっぱをかけるのではなく

ここから先は俺には無理だ、と認めてしまう。

こうしたほうが楽になれました。

 
一日のなかでできなかったり、失敗したことがあっても
それを気にしてくよくよするのではなく、
ま、できなかったけどいっか、とさらっと流してみる。
 
僕はできなかったことは、たぶんできると思ってもできない、って思ってなるべく考えないようにしてます。
 
とはいえ、デフォルト設定が完璧主義の減点方式なんで、
意識的に「今のままでいいよ」と言い聞かせている毎日です笑
まさにマニュアルのあきらめ。クラッチをきるのは意識的に!笑
(伝わるかな?)
 
 
完璧主義よりも、今の自分をそのまま肯定できたほうが人生は楽だと思います。
 
では今回はこの辺で。
また次回のブログでお会いしましょう!

 

 

「否定しない」 「受け入れる」 言葉ではなく態度でしめす。

こんにちは。

tigubagu(tigubagu0123)です。

GWも明日で終わりますね。

振り返ってみればあっという間だった!

前半はひたすらDVDを見て、

後半は友達が来て遊んでましたね笑

GW抜けたらどんどん暑くなるイメージがあるので熱中症対策忘れずに、ですね^^

 

さてさてそんなGW終盤の今日のテーマは、、

「否定しない」 「受け入れる」 言葉ではなく態度でしめす

僕tigubaguはとてもメンタルが弱いです。

まあ弱い。よわよわのよわ。

豆腐メンタル、ガラスの心じゃあらわせないくらいにメンタルが弱い。

しかしこんなメンタルの弱い僕だからこそわかることがある。

 

世の中には優しい人風を装って

「僕はあなたを否定しません、受け入れます」という人がたまにいます。

心が弱っているときほどこういう甘い言葉についつい誘われてしまう。

 

しかし実際に関わってみると

「あれ、、、なんだか変だな。全然受け入れられてる気がしない。しかもすごく否定されているし・・・・」ってな感じのことがこれまたとても多いんですよね。

 

そもそも否定しない、受け入れるっていうのは

言葉が先立ってあるのではなくて、先に行動ありき

ふりかえってみて「ああ、自分はあの人に受け入れられてるな」と感じるもの

 

だと僕は思うのです。

(もちろん組織のスローガンとして「どんな人も否定しないし、受け入れる」というのはあります。しかし個人個人の関係では先に行動ありきなんです。)

 

友達なんかもいい例ですよね。

友達がほしい場合、「友達をつくる」と言ったりしますが、

友達になろう!といって友達になれるわけではありません。

友達ってのはなんか知らないけど気がついたら、友達だなって感じるものだと思うんですね。

 

恋人もおんなじことでしょう。

「好き」と言って、または言われて好きになることってほとんどないと思います。

同じ時間を一緒にすごして、なんか好きだなって感じる、そういうものですよね。

 

逆に言うとそれだけ行動に起こす、態度でしめすことが難しいとも言えますよね。

 

そもそも他者を完全に否定しない、受け入れるなんてことは不可能です。

なぜなら自分と他者は全く別の存在だからです。

 

しかも自分の目にうつる他者は

「他者そのもの」ではなく、「他者の像」にすぎません。

 

つまり言い換えると

「自分から見た他者」しか受け入れることはできないし、本当の他者の姿はわからない、というわけです。

 

僕もよく経験あるんですが、表面上は「わかってもらえてる」と感じても、まだまだ心の中には「わかってもらえていない部分」が存在します。

が、同時にこの部分は決してわかってもらえないんだろうな、といういい意味でのあきらめもあります。

 

まずは態度でしめして、言葉はそのあとです。

 

振り返ってみると

僕も誰かのことを受け入れることができたことが果たして1度でもあるのか、ときかれると首を縦には振り切らないです。

やっぱりどこか自分の都合のいいように他者を解釈している。それゆえに他者との誤解もしょっちゅうです。

 

そのくらい否定しない、受け入れるってのは難しいんでしょうね。

みなさんはどんな時に自分は受け入れられたと感じますか?

 

今回は以上です。

また次のブログでお会いしましょう!

では!

SNSの「つながり」について 

こんにちは。

tigubagu(@tigubagu0123)です。

昨日から友達が泊まりに来てて、

GWずっと一人で話す人がいない中の友達の宿泊。

いやぁ、やっぱり話せるってのはありがたい。

友達の存在は大きい。

感謝すべきことですね。

ありがたい!

ちな今日も博多はどんたくげな!(^^)

 

 

 

さてさてそんな友達宿泊してるという今日

のテーマは

SNSの「つながり」について

 

これを読んでいるあなたはSNSをやっていますか?

僕tigubaguはTwitterとLINE(LINEをSNSにいれるかは人によるかもだけど)をやっています。

中にはTwitter、LINEにとどまらずFacebookInstagramなどもやっている人も世の中には結構な数存在すると思います。

時にはなつかしのmixiなんかもやってる人もいたりしますよね。

 

そんなSNSですが、このSNSを使う際に必ずセットで使われる言葉が、、、

 

つながる

 

SNSをやっている皆様なら一度は耳にしたことありますよね。

むしろつながるためにSNSをやっているといっても過言ではないかもしれません。

 

しかしここで僕は疑問に思いました。

「つながるってそもそもどういうことなのだろう。」・・・①

「つながるつながる言うけれど誰と、どこまでつながればいいのだろう。」・・・②

 

まずは①から。

この場合のつながりは、「SNSにおいてのつながり」でいいでしょう。

僕はTwitterとLINEしかしていないので、Twitterの場合で言うと

 

自分と相手が、フォローして、フォローされる、つまりフォロバされる関係をつながる、というのだと思います。

 

しかし、ではこのSNSにおけるつながりなるものが果たして価値のあるものなのでしょうか?

 

日常生活においてのつながりは

一般的な場合だと

家族、親友、恋人、会社での仲間、親戚同士

などがあげられると思います。

SNSのつながりと対比して現実のつながり

 

これらのつながりは価値のあるもの、自分の人生にとって有益となりえます。

まさにその人の存在が自分にとって価値あるもの、だといえます。

 

しかしSNSにおけるつながりは、果たしてそれほどのものなのでしょうか。

 

ここで②の問いが出てきます。

 

SNSにおけるつながりはとても抽象的です。

 

あまたあるユーザーさんのどんな人と、何人つながれば自分は満足するのか。

そもそも相手の名前(本名)、顔、人柄、なにもかもがわからないことがほとんどです。

しかもつながってもつながっても、もっともっとつながりたいつながりたいと欲は出てくる。

(面白いですよね。これってSNSを作り上げた人たちの策略なのかもわかりませんが、ほんといつまでたってももういいや、とはならない。フォロワーが増えれば増えるほどもっともっととなる。まさに人間の心理をついたシステムです。)

 

僕は思うのです。

いくらSNSでつながりを増やしても、それは僕たちの生きる糧や、前を向く力にはなりえないんじゃないかと。

僕たちの力になるのは、日常生活のつながり(現実世界のつながり)においての人たちの存在だと思います

 

SNSのつながりが仮に力になったとしても、すぐにその効力は消え、また新たなつながりを求め始めてきりがありません。

そして仮にSNSでのつながりを探すことで体力も消耗してしまいます。

 

作家の鴻上商事さんが著書『孤独と不安のレッスン』の中でこのように述べていました。(ブログ筆者により一部改変 最後にアマゾンのリンクを載せておきます。)

 

「インターネットが登場してもっともよくない影響は『簡単に慰められることだ』」

 

SNSがある現代、現実で傷つくとSNSに逃げ、SNSのつながりで癒しを求める人が大勢います。

かくいう僕も何度癒しを求めたことがあります。

 

しかし人間として成長するためには、自分自身と向き合い傷の痛み、孤独のつらさと向き合う必要もあります。

そうでなければ人間の精神としての成長はないようにも思えます。

 

ただここまで書くと

じゃあSNSのつながりをなくせ!とお前は言うのかよ、ととらえることもできます。

 

そういうわけではありません。

もちろんSNSのつながりを維持しても大丈夫ですし、SNSに癒しを求めるときもあります。

しかしウエイトの問題です。

 

SNSのつながりをメインにしてしまっては、いまあなたの周りにいる人たちのつながりが希薄になるおそれがあります。

 

そして中にはSNSのつながりに苦しめられている人いると思います。

そういう人にはぜひ言いたい。

 

縛られる必要はないんだよ、と。

しょせんSNSです。

 

それと最後に一つ。

要は使い方の問題、というのもあります。

 

SNSから入り現実のつながりを得ている人もたくさんいると思います。

かくいう僕も今の活動仲間とはSNSで知り合いました。

 

まとめると

 

SNSのつながりはほどほどに、現実のつながり、ひいては自分の大切なもの、自分のやりたいことに力を入れていってほしいな

、と思います。

 

今回は以上です。

では、また明日のブログでお会いしましょう!

 

ps. 

現実に今居場所がなくてSNSにしか居場所がないという人もいると思います。

僕はこんな記事を書きながらも、SNSに居場所を求めることはいいと思います。

が、いつか自分ができるタイミングでいいので少しずつ目の前の現実の世界の居場所探しも少しずつやってみてください。

ゆっくりゆっくり。ほんとにゆっくりでいいです。

僕もゴリゴリにひきこもっていたころはネット世界しか居場所はありませんでした。

そのときネットで知り合えた人がいるからこそ今があると思います。

僕もまだまだひきこもり気質ですから現実と向き合うときは怖い時もあります。

しかし現実の場にも必ずあなたの居場所はあります。

僕もまだまだ模索中ですが、必ずあると信じて今も毎日を生きています。

ゆっくりいきましょう。僕も横にいます。

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

 

 

「考えさせられました」実際何を考えたのか

こんにちは。

tigubagu(@tigubagu0123)です。

今日から僕tigubaguが住む福岡では

博多どんたくがはじまりとにかく人人人です。

あじで、博多天神は人がどえらいことになってます💦

人づかれするけんね💦

 

さてさてそんなどんたくが始まった今日のテーマは

「考えさせられました」実際何を考えたのか

 

よく映画やお偉いさんの言葉で

「考えさせられました」

って言ってる人がいますがあの言葉をいっている実、実際何を考えているのでしょうか。

 

この問いを提示するためには

「そもそも考えるとは何か」を考える必要があります。

(「考える」を考える)

 

とりあえず僕が思う「考えるとは何か」を箇条書きでばーっと書き出してみると、

  1. 論理的に答えを見つける
  2. 頭を抱える
  3. 悩む
  4. ひらめく
  5. 自分自身と対話する
  6. うんうんとうなる
  7. 難しいことを簡単にする・・・etc

ざっとこんな感じでしょうか。

どれも当たらずしも遠からずな感じが否めません。

 

では1~7の共通項はなんでしょうか。

それはどれも

「頭の中であれやこれやしてる」

ってことだと思います。

(2の頭を抱えるってのは外から見た状態ですが、)

 

で、この「考えさせられました」という言葉なんですが、

この言葉を言っている背景には、

おそらく「考えている」ではなくて

「感銘を受けている、感動している」のほうがより適切だと思います。

 

例えばテレビで

「SNSが人間関係に与える影響」となる特集番組があったとしましょう。

この場合、「考えさせられました」、というからには何をどう考えたのかその人に聞いてみるといいでしょう。

 

実際に考えた人なら、例えばですが、

 

①SNSに頼りすぎてしまうと孤独感が増すとテレビではいってあったな。

②でもそれって本当だろうか。私はSNSで安心感を得た。つながりを得た。

③うん?待てよ?そもそも「つながり」とは何なんだろう。。

それに安心感を得たけどそれと同時にSNSをすることによりストレスも増えたような気がする。

そうなると①の「孤独感が増す」に近づくのかなあ

いやでも、孤独感とストレスは関係ない・・・?

以下続く。

 

のように自分で何かしらの結論を出すなり、推論をするなりこうした形が「考えさせられる」っていうことだと思います。

 

ただ、人から与えられたものにより「考えた」というのはやっぱりその程度のもの、と僕はどこかで思っている節があります。

 

というのも、人は自分が気になること、考えたいことは自然と考えているものだと思うのです。

 

もちろん一概には言えないというのも承知の上です。

 

他者からコメントをもらえたからこそそれが考えるきっかけとなりよりより自分に買われることができた、というのもよくある話です。

 

しかし大元の大元。根本の根本は自分から生み出された問であるはずです。

 

逆にいうなら自分から生み出された問じゃないと、「考えさせられる」なんてことはそうそうないと思います。

 

考える、については、僕もまだまだ「考えさせられて」います。

 

今回は以上です。

また明日のブログでお会いしましょう!

では!