「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。このブログは普段僕が感じているまたは感じた、ちょっと哲学的なことを徒然なるままに綴ったブログです。お時間のある方は是非読んでくださいな。

こんなことを考えている part3 方言と標準語訳 そして「言語の使用へ」

こんばんは~。チグバグです~。

最近どんどん暑くなってますよね・・・。

僕の住んでいる石川県での最近では日中では30度超えが当たり前になってきました💦

 

さあ、今回のタイトルは「方言と標準語訳 そして「言語の使用へ」」

とのことなんですけど、

 

僕は今石川県に住んでいます。

石川県というと北陸3県のど真ん中の県で、県全体よりも県庁所在地の金沢市が全国的に有名ですね。

 

とはいえ、僕生まれは石川県ではないんです。

いろいろ諸事情やらなんやらがあって今は石川県に住んでいるということです。

 

さてさて、この石川県には石川弁というものがあり(詳しく書くと金沢弁とか、能登弁に分かれるんですが今回は大きく石川弁としておきます。)、

 

普段生活をしていると当たり前のことですが、石川弁をずっと耳にして生活することになります。

 

例えば石川弁にどんなものがあるか。

「何しとらん?」=「何してるの?」

「行かんげん」=「行かないよ」

「言ったがいね」=「言ったじゃない」

(標準語訳は「CHAKU WIKI 石川の言葉」より引用)

 

とまあこんな感じなんですが、今回この記事の主旨は石川弁を紹介するものではありません。

 

僕は石川県に移り住んだ時、石川弁を聞いて「何となく、わかるけど、わからないのもある」って感じでした。

 

今回のテーマはなぜ「何となくわかる」という現象が起こりえるのか?です。

 

特に方言においてこの「何となくわかる」というのは顕著に表れていると思います。

 

例えば東京の人が、大阪弁をきいても「何となくわかるよ」というのもこれです。

もちろん「何となくわかる」どころか「全くわからない」方言も存在するとは思いますが、今回焦点を当てているのは「何となくわかる」方言です。

 

 

例に出した「言ったがいね」=「言ったじゃない」を見てください。字面だけで「言ったがいね」をみても、僕はとてもではないですが、標準語の「言ったじゃない」を連想することはできない。

 

もっというと「方言がなんとなくわかる」というのは僕は決して、「その方言の標準語訳ができる」ということではないと思っています。第一「言ったがいね」の標準語訳が「言ったじゃない」になるなんて、調べてからようやく「ああ、まあそうかな」という感じでした。

 

なぜなら方言を聞くとき、話すときいちいち標準語訳なんて考えていないからです。(とりあえず僕はそうです。)

 

では、「何をもって方言がわかっているのか」と問い始めると、これはものすごく難しい問題だと思います。いいかえるなら「何をもって言語がわかっているのか」という問いになると思っています。それゆえこの記事では「方言がわかる」とは、「方言を使い何となくでもコミュニケーションがとれていること」としておきます。

(「コミュニケーションとはなにか」と考えるとまた難しくなるのでここではふれないでおきます💦)

 

さて、ではなぜ「方言がなんとなくわかる」なんてことがおこるのでしょうか。

 

一言でいうとぼくはそれを「人間には言語の使い方を推測する力があるから」だと思っています。

 

石川弁の「言ったがいね」を字面で見てもわからなくても、実際にその言葉が使われている場面に遭遇すると「ああ、こういう使い方するんだなあ」と推察することができます。(このことは人間の赤ちゃん母語を習得する過程にも似たようなものがあるのかなと思っています。)

 

ここで「言葉の使い方」といって「言葉の意味」といわなかったのには理由があります。(僕の中では)「言葉の意味」といってしまうと、「方言の意味を言える」、つまり(この場合でいうと)「方言の標準語訳を知っていること」になってしまう。

それ故に「意味」ではなく「使い方」としました。

(もちろん、「言葉の意味」とは何かを考え出すと、とんでもなく難しい哲学的問いになってしまうので今回の記事では「標準語訳」ってことにしておきます。

1つのことをしっかり考えていこうとすると、「すべてを考える」、「すべてを疑う」わけにはいかないんですよね。「考えるための足場」というのは、いくつかの前提により成り立っているのかなと思っています。)

 

 

「使い方」ならば、「あ、こういうときに使うんだ」、「こういう雰囲気の時にこの言葉が使われるんだ」と推測できますし、実際僕はこのようにして方言を使っています。

 

外語供御でも似たようなことはあると思います。もちろん外国で言語の使用法則を、実際の使用現場でみるためには、ある程度、英語なら英語を、イタリア語ならイタリア語を話せる必要があるとは思いますが、根本は一緒でしょう。

 

そして「言語の使用」の後に、「言語の意味」がうまれるのかな、とも思いますが、このことはまた別の機会に述べたいと思います。

 

また今回の考察で新たに生まれた疑問としては、「そもそも何をもって自分の思う、方言の使用規則が正しいとわかるのか」、「なぜある方言の標準語訳がそうなるかの正しさの根拠はあるのか(言い換えるなら「翻訳の確定性はどこからくるの?」)」などですが、また難しくなりそうなのでじぶんである程度考察してまた書きたいと思います。

 

ブログの締め方とかよくわかりませんが、今回はこのへんで!

 

コメントなどなどあればぜひぜひコメントしてください^^

誹謗中傷はご遠慮ください💦

 

PS. 自分の言葉で語るというのはやっぱり難しいですね💦