こんにちは。tigubagu(@atigubagu0123)です。
今回哲学者野矢茂樹さんの『語るえぬものを語る』を読んだので、それの感想を書こうと思います。
この本の趣旨「語りえぬものを語る」というのは、かの有名な哲学者ウィトゲンシュタインが主著『論理哲学論考』の中で語った『語りえぬものについては沈黙しなければならない』に対してのアンチテーゼともとれるような趣旨なんですが、
感想を一言で表すと、
「そんな風に考えられるんだ!」ってこと!
いや、単純かよって思われるかもしれませんが率直にそう思いました。
そもそも自分はウィトゲンシュタインのいう『語りえぬもの』について自分なりの解釈を出すと、
例えば、AさんとBさんが「言葉の意味」とは何かについて話していて、
「リンゴ」でも、「みかん」でもなんでもいいんですけどある一つの文や単語の意味について話しているとします。
しかしその話しているのも言葉をつかっておこなわれます。
その話している言葉の意味も疑ってしまっては、そもそも「言葉の意味」を考えることすらできません。
つまりここでは話されている言葉の意味はまさに「語りえぬもの」なのです。
自分は大体こんな感じにとらえているんですが、伝わったか不安です・・・汗
そして本書ではそんなさまざまな「語りえぬもの」を語ろうとして試行錯誤した野矢先生の形跡をみることができます。
中でも自分が印象に残ったのは、
「論理空間」と「行為空間」という概念です。
本書の言葉を少し言葉を足しつつ引用すると、
論理空間というのは、論理的に可能なあらゆる事態をそこに開いている空間。
他方、我々はそんなすべての可能性を考慮することなく、そのごく一部分の可能性だけを生きている、そんな空間のことを行為空間という。
僕の言葉で置き換えると、
論理空間・・・考えられることならなんでもありの世界。
行為空間・・・普段生活している日常の世界。
こんな感じだと思います。
具体例として、
僕はよく「この広い世界の中で心を持っているのは僕だけで、それ以外の人はもしかしたらロボットなのかもしれない」
ってことを考えるんですが(はい、考えるというかふと気になるんです笑)、
この場合「僕以外の人はロボットかもしれない」というのは考えることはできます。
しかし実際に僕が人と接するときにその相手のことを「この人はロボットだ」と思って接することはありません。
ゆえにこの考えは、「行為空間の考えではないけども、論理空間の考えではある」と言えます。
この考えは僕にとって思考の整理をするうえで大変役立つ考えになりました。
しかし僕はあえてこの「論理空間」と「行為空間」の考えに、僕の考えを投げかけるなら、
例えば、自分以外の人間をロボットだと思いそのようにふるまっている人がいるとしたら(なかなかに恐ろしい人ではあると思いますが)、
その人にとっては「自分以外がロボット」というのは行為空間の行いになるんじゃないのかな。
しいて言えば論理空間と、行為空間の区別は人によるのではないのか、と思いました。
と、こんな感じで一章、一章ごとにノートにまとめて考えさせられるテーマがすごく多かったので読んで損はないと思います。
ぜひぜひよんでみてください!
では!