「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「孤独」を考える part3

こんにちは^^

いつも読んでいただきありがとうございます。

tigubagu( tigubagu (@tigubagu0123) | Twitter)です。

いつも僕ブログを書くときはパソコンで書いてあるのですが、パソコンで書くサイズとスマホでのサイズが違うため、文字列がぐちゃぐちゃになってることが結構あるみたいです・・・・
本当に読みにくくて申し訳ないです!!
改善できるところは随時改善していきます。

 今日のテーマ

さてさて今日のテーマは

「孤独」を考えるpart3 

(part1とpart2は下にリンクを載せておきますのでよろしければぜひ読んでください^^)

www.dotama-kotoba.com

 
www.dotama-kotoba.com

 

さあ、このシリーズもはやpart3というわけでございますけれども、

まずは以下の本からの引用文に目を通してください。

 

自分一人キリのときに何もせずにいることができる能力を、培う必要がある。それはスマホが奪おうとしているものだ。ただじっと座っていられる能力。それこそが、一人の人間として存在することなんだ。・・・なぜなら、人生は無、永遠の無の上に成り立っているからだ。すべては無に帰すということ、自分はひとりきりだと知ることが大切なんだ。

 

そしてときおりいろんなことが片付いて警戒心を解き、自分の車の中にいるときなんかに、ふと思い始める。ああ、一人になるときが来た。(中略)人生はとてつもなく悲しい。・・・・だからつい、運転しながらメールしてしまう。100%といっていいほどたくさんの人が運転中にメールしている。そうやって互いに車で殺し合いをしているわけだ。けれど、人がそうやって自分の命を危険にさらし、他人の人生をめちゃめちゃにしようとしているのも、ほんのわずかの間でもひとりになりたくないからだ。

 

 この引用は以下のシェリー・タークル著『一緒にいてもスマホ』という本から引用してきたものです。

 

一緒にいてもスマホ ―SNSとFTF―

一緒にいてもスマホ ―SNSとFTF―

 

 

僕はとにかく「一人」ではいたくない。それでも孤独に思考することには価値がある。

がんばって理性で一人の良さ、孤独の効果について言い聞かせるけれど、やっぱり孤独はつらい。

 

僕はうまれつき世間でいうところの「発達障害」(以下特性といいます)というものを抱えています。

特性を持っている人に多くが「わかってもらえなさ」に悩みとても苦しい思いをしています。

しかしだからといって声高に社会に向かって「なんでわかってくれねえんだよおおお!!」と叫んでももちろん社会側はとりあってはくれないでしょう。

 

そんなときは苦しくもあり、つらくもあるけれども、孤独に一人考えること、が大切だと思います。

 

もちろんつらいです。もちろん苦しいです。もちろん泣きたくもなります。

しかしこうやって自分と向き合うことによってしか社会との付き合い方は模索できないのではないでしょうか。

社会と良好な関係を築きたければ、まずは己自身をきちんと知る必要があります。

そのためには一人でしっかりと自分がどういう人間で、どんなときにどんな感情をするのかしっかりと向き合う必要があります。

希望をもって生きる人は美しい

もう1つ本から引用させてください。

伏見憲明『さびしさの授業』理論社

 

ぼくらは社会という場にしか生きられない。その中で自分を良しと感じるためには、どうしても他人に自分のことを良しとしてもらう必要があります。社会というのは人間が相互に認め合うことで成り立っている場ですから、それなしにはだれしも居場所を見出すことはできません。

(中略)

しかし普通はそんなにうまい具合に自分の問題を解き明かしてくれる出会いなぞ起こりえません。それが人生というもののままならさでしょう。理不尽であろうが、差別であろうが、この世界には「私」のための席が用意されていないこともありうるのです。それはまさしく僕ら人間や社会の限界を反映しています。

 

もちろん、もしかしたら一生「私」の願うような場所は見つからないかもしれません。もちろん待ち望む人が現れるとも限らない。しかしその希望を消さずに自分の中で大切にそれを確保していくこと。そのことじたいで「私」を生かすことができると信じたいのです。また人はそうやって生きていかざるを得ないのです。

 

さびしさの授業 (よりみちパン!セ)

さびしさの授業 (よりみちパン!セ)

 

 

人は「希望」がないと「生きて」いけません。

それはどんな類の希望であってもいい。

明日は今日よりよくなるだろう、

明日はおいしいもの食べよう、

自分はこうなっていきたいな

 

などその希望の内容は数あれど希望を持つということに変わりはありません。

 

僕自身ずっと「死にたい死にたい」と言ってきた人間なのでわかるのですが、

死にたいと言っているときはすべからくこの「希望」が感じられないときです。

 

人は希望がないと生きる力が持てなくなるのだとその時わかりました。

 

孤独で一人考え、社会とのつながりを模索しても

それでもうまくいかないことは多々あります。

そんなときにきっと、いや必ずどこかに自分をわかってくれる、自分の居場所はあると思うだけで希望がわいてきませんか?

 

しかし何度も言うようにまずは徹底的に自分と向き合うことが必要です。

「だあれも俺のおとなんかわかっちゃくれねえよ!」といい全部を周りのせい、環境のせいにしてしまっているだけでは環境をかえたとてさほど変化はないでしょう。

(が、もちろん環境もものすごく大切です。このことについてはまた別のブログで記事にしたいと思います。)

 

自分を知り、自分がわかってこそ、自分がどんな人と巡り合いたいか、どんな居場所を求めているかがわかってくると思います。

 

僕もまだまだ自分についてはわからないことだらけです。

一緒に考えていきましょう^^

 

今回は以上です!

ではまた次回のブログで!