「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

強迫的な思考、考えのほとんどが「不安と恐怖」によるもの、と僕は思ってる ~part1~

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。おはこんばんにちは。

tigubaguこと桂木大輝です。

https://twitter.com/tigubagu0123

 

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昨日のブログでもYouTubeでも再三再四僕は完璧思考の癖があり、そのせいで強迫的な思考に迫られている、というお話をしてきました。

(⇓昨日のブログのリンクを張る)

YouTubeで完璧主義について話しました。


僕が発達障害ゆえの日常で感じるつらさ~part2~ 完璧主義がつらいぜ!!

 

 

今回は少し視点を変えて、

ではなぜ僕は「完璧主義」になってしまうのか?ということを考えてみました。

 

そこで出た答えが、「不安と恐怖」というものでした。

 

例えば、

過去に誰かに自分の欠点を指摘されたとします。

すると、僕はもうその欠点を指摘されるなんて恥ずかしい経験は2度としたくない、と思い、頭の中で失敗をしないように何度もシュミレーションをするんです。

 

こうすればだれからも反論されない!

こうしたら俺のほうが正しいってことになる!

ってな風に入念にシュミレーションを行うわけです。

 

しかし、こんなシュミレーションをしていたらだんだんとキリがないことに気づいてきます。

自分でどんどん、「いやもし~したらどうするんだ」や「いやもし~と指摘されたらどうする?」と反論のすきを与えぬようどんどん幻想の完璧に近づいていくのです。

 

さらには、自分が他人に対して何かを話すときも、すぐに相手の話の上げ足に注意が向いたり、「でも~の場合だったらどうするんだ?」と相手の発言の不完全性を指摘してしまいます。

(この場合の不完全性も僕から見た不完全ってだけである。)

 

で、これらの思考方法が極限までに高まると、「自分は常に考えなければならない」、「常に完璧でなければならない」ってなところまでに行きつき、めちゃくそに生きづらい生き方になっていくわけです。

 

もう一度、なぜこのような考え方になったのか振り返ってみると、

「僕はもうその欠点を指摘されるなんて恥ずかしい経験は2度としたくない」、と思ったことが始まりなんです。

 

つまり言い換えるなら、だれかに指摘されたり、誰かに間違いを正されるのが「恥ずかしい」と考えていた。

 

そしてこの「恥ずかしい」ってのは往々にして、「恐怖」に変わります。

 

その恐怖を心配することにより、「不安」が生まれるのです。

 

ですので、「不安と恐怖」ゆえの完璧主義なのです。

 

ではどうすれば、ここから抜け出せることができるのか?

 

明日のブログへ続きます。

 

今日も皆様が良き一日を過ごせますように^^

ではまた!!