「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「死」が一気に間近に感じられた話

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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俺結構死ぬ可能性高くね?

先日お風呂に入っていて、ふと思ったんです。

「あれ?俺これ風呂場で足滑って湯船の淵で頭打ち付けたら死ぬんじゃね?」

一人暮らしだし、もし実際自宅の風呂場で命の危機にあったとしても助けはよべない。。

 

ほかにも・・・

すごく雨が強いときに、「俺、これ足滑らして頭打ち付けたら下手すりゃ死ぬんじゃね?」

一人で食事をしていて、「喉詰まらせたら死ぬんじゃね?」

などなど。。

 

すごく死が近くにあるなと強く感じられました。

もちろん生と死は表裏一体という言葉にもある通り、死はいつも間近にあるとは頭ではわかっていたつもりです。

実際僕自身もこうは書きながらもしょっちゅう希死念慮に襲われるので、死はそこにあるとわかっていました。

しかし今回のお風呂場での出来事は、感覚として、もっというと生物的な本能として死がリアルに感じられました。

あ、俺も死ぬんだなと。

 

4年ほど前、僕は車で大きな交通事故を起こしました。

その時僕もお相手も無事だったのは本当に幸いでした。

この事故を起こした日を境に僕の死生観はがらりと変わりました。

人は死ぬ、確実に死ぬ、間違いなく死ぬ、ということが肌身をもって実感しました。

 

希死念慮には今でももちろん襲われます。

しかしこの希死念慮をよくよく観察し、考察してみると、僕の場合は、

たんに毎日が平凡でつまらないからなにか楽しいことがある毎日になってほしい気持ちの表れだったり、いやなことが積み重なってここから逃げ出したい、くらいのものであることがほとんどです。

本当の意味で「死にたい」と思ったのはほとんどありませんし、事故を起こしてからはもしかしたら一回もないかもしれません。

 

事故を起こしてから、そして先日のお風呂でふっと思ったことから、

僕は死がリアルに感じられ、そして死がとても怖くなりました。

「なんで死が怖いのか?」と聞かれたらわかりません。ただただ怖いのです。

あえて原因の一つを挙げるとしたら、死をリアルに感じたからでしょうね。

自分にも襲い掛かってくるんだぞという風に。

 

「人はいつ死ぬかわからない。だからこそ毎日を大切に生きよう」と誰もが言いますし、実際僕もこれを自分の好きな言葉としてよくこのブログでも使っています。

しかし当然なんですが、毎日を大切に過ごしても人は死にます。大切だろうが(充実していようが)、無駄にしていようが、死にます。

 

 

しかし、「毎日を大切に、そして一生懸命に生きる」という生き方は、一時的にも死を忘れさせる効果があると思っています。

人は時間さえあればどんどん自分のことを考え、そしてその思考は死へも至ります。そして死を考え続けてしまう泥沼へとはまってしまうとそれこそキリがなくて地獄です。

だからこそ、日々を大切に自分のやりたいこと、やるべきことを淡々とこなすこと、これが死から目をそらす最良の方法です。

 

逆に死がある、命に限りがあるからこそ、人は頑張れるのかなと思います。

名探偵コナンの服部平治も言ってました。

「命は一つしかないからがんばれるんや」と。

その通りだと思います。

 

かなり支離滅裂な文章になりました。

実際僕の死に対する思考も支離滅裂です。

生きます。

 

今日も皆様の一日が良き日となりますように!

ではまた!