おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
(https://twitter.com/tigubagu0123)
僕は発達障害をもっています。
当然ですけれど持ちたくて持ったわけじゃありません。
理由はわからず、なぜか持っていました。
世の中には、悲しいかな、自分とは違うと認識した人を貶める人がいます。
通常こういったことを世間では差別といいます。
「自分とは違う」というのは、、どんなことにでも当てはまります。
上に挙げた障害の有無のほかにも、年齢、性別、出身地、使っている方言や言葉、肌の色、考え方、学歴、家族関係・・・・なんでも当てはまります。
多くの人が何かしらで一度は差別を受けたことがあると思います。
そして逆に多くの人が一度は差別をいたことがあると思います。
自覚のあるなしにかかわらずです。
「差別をどうすればなくせるか?」という問いは壮大すぎて一個人のブログではとても扱いきれません。
僕は僕自身が差別をされ、また差別をした経験から学んだことを記します。
差別をするときに多くの人が、差別をしている対象の人を「自分とは全く関係のない人だ」と見ています。逆に言うと自分とは違う、自分とは関係のない人だと見るからこそ差別ができるのだと思います。
例えば僕の場合だと発達障害がそうですね。
僕も少なからず、発達障害ということを理由に心無い言葉をかけられたこともありました。無自覚のうちに傷ついた経験なんて数え切れません。
その時心無い言葉を言っている当人、またはその家族、親せきなど近い人柄の間におそらくは発達障害をもっている人がいないんだろうな、と僕は思います。
もちろんいる場合もありますが、いても自分とは関係がないと割り切れる状況にあるのだと思います。
しかし、今その心無いことを言っている当人が発達障害ではなくても、
もしかしたら将来結婚する人が発達障害をもっているかもしれない。
生まれてくる子どもが発達障害を持っているかもしれない。
人生を変えてくれるような詩素晴らしい人に出会って、その人が発達障害かもしれない。
なんならもしかしたらその当人も将来生きづらさを感じ、診断を受けたら発達障害と診断されるかもしれない。
言いたいことは、「どんな人とも自分と関係を持つ可能性はある」
ということです。
そして、この思いを持つことが僕は「人と人との共感を生む」と考えています。
人間である限り、だれしも一見して自分とは違う他者を見ると、警戒したり、関わらないようにしたり、避けてしまったりすることはあります。
その時に少しでもいいので「自分と全く関係がないなんてことはないんだな」と思うと少しだけ心に余裕が生まれませんか。
そうしてほんの少しでもいいんで、その目の前の他者が感じていることを自分事として考えてみる。
そうすることによって「自分と他者がともに抱えているものを感ずることができる」。
これこそが共感だと思います。
今現在はどんな国に住んでいる人であっても他国の人と容易に関係を持つことができる時代です。
そんな時に、自分とは違う、関係のない人、とは決して言いきれません。
このグローバルな時代、どこでどんな人と関係を持つかなんて誰にもわからないのです。
どんな人が自分の大切な人になるかなんてわからないわけです。
だからこそ日々、自分とは違うなと感じる人が目の前に現れても、少しずつでいいのでその人の抱えていることを自分事としてとらえる習慣を始めてみてはいかがでしょうか。
理想論だけを語るなら、差別のない世の中になってほしいと心から思います。
しかしそれと同時に現実の残酷さを見るにつけ、差別はなくならないのかと悲しくなります。
だからこそ、そんなときだからこそ、まずは自分ができる範囲での他者への共感をしめすところから僕は始めます。
今日も皆様の一日が良き日でありますように^^
ではまた!^^