おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
(https://twitter.com/tigubagu0123)
世界を解釈するのはいつも自分の視点でしかない
僕は何かを新しいことを始めるにしてもいつも我流のやり方に陥ってしまいます。
そのやり方でうまくいくときもあれば、たいていの場合はうまくいかないことが多いです。
で、うまくいかない場合はその新しいことをすることを諦めます。
他者の意見を取り入れるときも、僕が感覚的に「あ、これは俺でもわかるな」と感じたもののみを取り入れています。
わからなかったり、僕が屁理屈を言いたくなるような他者の意見はそもそも取り入れないようにしています。
下図の図を見てください。
なかなか言葉では説明しきらんのですけれど、
目の前にある世界を見ているのは自分じゃないですか。
で、その世界に対して意味付けをするのも自分ですよね。
例えば目の前にお水があって、そのお水を「熱いと感じるか」、「冷たいと感じるか」、「ぬるいと感じるか」は自分次第じゃないですか。
それと同じで、難しいと感じるのも自分、簡単と感じるのも自分、好きだと感じるのも自分、すっきるすると感じるのも自分、、
「あ、これはわかるな」と感じるのも自分、
「○○さんのやり方だとわからないけれど、自分なりの解釈の仕方ならわかるな」と感じるのも自分。
すべて自分なんです。
まあ改めて説明するまでもないんですが、僕はこのことがとても重要だと感じているので言語化しました。
わからないことにこだわらなくていい
これは僕自身の経験です。
自分の中に疑問が浮かびあがった時に、僕はどうしてもそれを解決しなければいけないと強く思い込んでいました。
原因の一つとしては、学生の頃の学校の教師の「理解しろ!わかるまで考えろ」という大したことない文言を強迫的にまで真摯に受け止めすぎてしまったからです。
そこから自分の中に少しでもわからないことがあると僕は不安で不安で、息苦しくなりしまいにはそのせいで死にたくなるくらいでした。
僕は考え方を変えました。
わからないというのは、僕が世界に対してつけた解釈なのだと。
そして「わからない」というのは決して悪いことではなく、僕が世界と向き合った時に僕の中に生じる尊い感覚なのだと。
そうなると「わからない」というのは一つの解釈、そして自分の状態であってそれを大切にしようと思えるようになりました。
「わからない」ことを無理くり「わかる」に変えるというのは僕は一種の自分を傷つける行為だと思っています。
そしてもう一つ。
よくお偉いさんなんかが「我流はダメだ!できる人をまねろ!」や、「教科書通りするのが一番たい!」って言っていますよね。
僕みたいなタイプは逆に我流だとわかるのに、教科書通りするとたちまちわからなくなって苦しくなるんです。
もちろん真似するのがいいなと直感で感じ取ったら真似をすることも厭いません。
しかし我流のやり方の方が理解が進み、それで自分がいいと思うなら僕はそれでいと思うんですよね。
「教科書通りするとわからなくなる」ことにはこだわらなくていいと思っています。
そしてもしね、我流で突き進んでわからないことに直面した時はその時に考えればいいと思うんです。
その時には、
「自分なりの思考法で考えてたけどわからんこともあったな。教科書通りのやり方だとでももっとわからなくなる。うん!ならあきらめよう!」
みたいにですね。
(ちなみにですが、僕はあきらめることを悪いことだとは1つも思っていません。自分の力量で無理だと判断するのは自由な人生を送るためには欠かせません。)
サブタイトルにもあるとおり、わからないことにこだわるのではなく、わからないことはわからないままで、「わかる」ことを使って人生をどうしていくかを考えるほうが僕の性にあっています。
もっというなれば「わかること」を駆使して、「自分だけの解釈」で世界を理解していくことこそが自分だけのたった一度の人生を「生きる意味」になりうるんじゃないかなと僕は考えています。
もちろん当然ですが、自分独自のやり方で世界を解釈しているものですから、当然他者にその内容が伝わらないことは日常茶飯事です。
しかしその伝わらなさも、今はまだまだできていませんが、自分という人間のオリジナリティ性から生まれていると考え、自分だけの世界なんだと思えば愛着も湧いてきませんか?
僕は伝わらなさですら大切にしていきたいです。
どう生きるか、これからも模索していきます。
今日はのブログは以上です!
今日も皆様の一日が良き日となりますように^^
ではまた!^^