おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
(https://twitter.com/tigubagu0123)
※以前にも何回か「つながり」に関係のある記事をブログにしていますのでよければそちらも読んでいただけると幸いです。
僕はここ最近気圧の変化と、天気の悪さも相まってかほぼほぼ毎日眠れない夜に「死にたいな」と考えるようになっています。
「死にたいな」という感情はバリエーションが豊かで、シンプルに「死にたいな」のときもあれば、「もう死んでしまいたい」もあれば、「死んじまったほうがいいのではないのか」などいろいろあります。
この感情にプラスしていつも考えている疑問が、
「どうして僕は死にたいなと感じるのだろうか」という疑問です。
毎回毎回考えてもいつもディテールが異なった答えが出てくるのですがいつも大体共通している部分としては、「僕の言葉は誰にも覚えられず理解されることなく消えていく。誰も僕のことを理解してくれないむなしさ。ああ辛い。さみしい。」と言った感じのものです。
先日「人間関係は傷ついて当たり前」といった主旨のブログを書きました。
このブログで僕は、
「コミュニケーションとは何か?」という問いはこれまたとんでも問いです。実際学問の世界でもコミュニケーションについてたくさんの説があったり、考えがあったりします。
実際「相手に自分の考えを伝えることがコミュニケーションだ」とよく言われますが、じゃあ果たして現実になにが相手に伝わっているのでしょうか?どうすれば伝わったとわかるのでしょうか?
という考えを書きました。
僕にはこのことの事実がとてもむなしく感じられるのです。
なんだか大業な哲学的問いに聞こえるかもしれませんが別にそんなものでもなく、
僕とあなたは究極的にはどうやってもわかりあえないんだなという事実が僕はすごくむなしくさみしく感じられるのです。
そして誰とも分かり合えない世界なら生きていても意味があるのかなとなってしまうのです。
もちろん同じことを考えても「うん、だからそれで何?」となる人がほとんどだと思います。
僕がこのことを考えて死にたくなるのには、過去に受けたいじめとか、誰にも僕の話が伝わらずバカにされた経験があるとか、そういったことが多分に影響しています。
つまり僕の死にたいの根底にあるのは人に対してある種の信じられなさがあり、それが誇大してこのような哲学チックのような問いに発展したんじゃないかと思っています。
しかし落ち着いて考えると、「人と人とはわかり合えない。じゃあ死にたい」はむちゃくちゃです。
それにです。
人は別にわかりあえなくたってそこに存在しているだけで感謝されるんです。
僕もいま居場所づくりの活動で属している「居場所~特性を生かす道~」において僕がただ存在していることにより生きる力をもらっているという人が少なからずいます。
もちろんそういった人たちが僕のすべてをわかっているわけじゃないし、逆もまたしかりです。
それでもそこに存在することに意味がある、意義がある、ここにこそ僕は日々生きづらいと感じている毎日をなんとか乗り越えようとできる生きる力を見出しています。
誰かにとって存在が感謝される、ここにこそ僕は生きるための意味があるのかなと感じています。
ようやくテーマである「つながり」に触れますが、
まさに心の中が死にたいでいっぱいの時はとてもじゃないですがつながりの温かさを感じるなんてことはできません。
しかしこの死にたいの渦中にいるときは気が付かないだけでいつも僕に生きる力を与えてくれているのは今僕とつながりのある仲間の存在なんですよね。
存在してくれることに感謝、という言葉に力をもらっています。
言ってしまえばこれこそがつながりの最も基本形態なんじゃないかなと思うんです。
当然距離もあるし、そんな簡単には会えないですし、スマホやパソコンを介しての関係ではありますが、それでも僕に前向きに生きる力を与えてくれているのは事実なんです。
つながりという概念はほんとここ最近、それこそSNSの台頭とともに出始めてきたような言葉に僕は感じられます。
だからかまだまだ「つながりとは何か?」ときかれてもこれだ!という確定的な返答はできません。
しいていうとすれば「今現在交流があり、その人当人にポジティブな、前向きな力を当ててくれる関係」みたいな感じでしょうかね。
つながりに関してはこれからもずっと考えていくつもりですのでこれからもなにとぞよろしくお願いします^^
今日のブログは以上です^^
今日も皆様の一日が良き日となりますように^^
ではまた!^^