「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「アイデンティティ」を考えてみる

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 自分のアイデンティティ

僕のアイデンティティは何だろうか。

ふと考えてみる。

日本人、男(身体的性、性自認ともに)、25歳、エセ博多っ子、エセ博多弁、プログラム練習中の身、毎日ブログを書いている人、居場所~特性を生かす道~の広報担当、読書好き、難しいことを考える、ASDADHD、会議が苦手、変なことろが几帳面、すぐに昼夜逆転をしてしまう、めんどくさがり屋、さみしがり屋、、

 

とりあえずバ~っと書いてみた。

個人的に考えているアイデンティティという概念は「私は○○である」の○○に入ることをいうもの。

アイデンティティとは同一性、すなわち「《他ならぬ》それそのものであって他のものではない」という状態や性質のこと、あるいは、そのような同一性の確立の拠り所となる要素のことである。 心理学や社会学の分野においては、一貫した自己・自我の意識を「自己同一性」(self-identity)あるいは単にアイデンティティと呼ぶ。

Weblio辞書より引用)

 

このアイデンティティが定まっていないと「自分が何者かわからない状態」に陥ってしまうのだろう。

他にも「自分が何をしたいのかがわからない」、「自分が自分でわからない」みたいなこともよくある。

 

人生を自分の思い通りに生きるためには自分がどういう人間かを知っておく必要がある。

そのためにはアイデンティティが欠かせない。

アイデンティティは自分を知るためにはとても大切・・・・らしい。

アイデンティティで苦しんでしまう

しかし本当にそうなのだろうか。

アイデンティティがあり、自分がどういう人間かわかれば、人生を自分の好きなように生きられる。

多くの自己啓発系の本にも書いてある、「自分を知ろう」という文言。

 

僕はアイデンティティに苦しめられてきた。

いや、もっというとアイデンティティがあるからこそ逆に苦しくなった、というべきか。

 

例えば僕のアイデンティティの中の1つである「男」。

男らしさ、という言葉にもあるように男であるがゆえに社会的なふるまいというのが大きく制限されてしう。

例えば、

  • 男なんだから泣くな。
  • 男なんだから弱音を吐くな
  • 男なんだからバリバリ働いて当たり前
  • 男なんだから逃げちゃだめだ
  • 男なんだから負けてはいけない
  • 男なんだから〇○○~

などなど。

僕は別に男だって泣いていいし、弱音はいていいし、逃げていいし、男だからダメとかそういうのはないと思う。

これは女性になっても話は同じ。

 

しかし社会はどうやらそうではないらしく、「こうあるべし」という規範を押し付けてくる。

その押し付けの規範が自分のアイデンティティに該当したとき僕はアイデンティティに苦しめられている、と感じる。

 

他にも、僕は「エセ博多っ子」というアイデンティティがある。

僕は福岡県に住んでいる。

なぜエセとつけているのかというと、生まれは福岡(もっというと博多)ではないし、博多弁もとりあえず周りの人の真似して使っているだけなので間違いだらけだと思っているし、生き枠の博多っ子みたいにお祭り好きとかお酒飲みでもないから、、とかそういった理由である。

 

先日県外の人と話す機会があり、話すと「全然なまってないですね」と言われた。

その時になんで福岡の人というだけでみんながみんななまっていなければいけないんだ?と思った。

というかそこそこの都会でもあるから転勤で住んでいる人もそれなりにいるだろうし、方言使っていない人もたくさんいる。

なんなら福岡に住んではいるが、もうほとんど方言の使い方忘れたという人も僕は知っている。

 

その時に感じたのが周りの人から見れば、僕は福岡県民というアイデンティティを持っていてだからこそ同時に福岡っぽさ(それが何かはわからない)を出すのが普通と考えているんだということ。

これって関西地方の人になるともっと強そう。関西に住んでいるのに関西弁使わないだけでなんで?ってなるから。

 

このことがあってから僕は自分のことを説明するときにエセ博多っ子と名乗るようにした。

そうするといちいちつっこまれなくてすむので。

 

で、結局何が言いたいかというとアイデンティティを持っているがゆえに縛られることが多々あるということ。

そしてアイデンティティをどう表現するかによっても他者の反応は変わってくるということ。(伝わりづらいな💦)

縛られるのはやっぱり好きじゃない。

「自分」なんてない?<無我>の状態

最近僕が好きな考え方の一つが「自分なんてものに縛られるのはやめよう」って考え方。

自分を無理に定義して、こういう人間だ!としてつらくなるくらいなら、わからないまま本能のまま直感的に生きていきたい。

そもそも自分(私)という存在自体がすごくあやふやでわからないことが多い。

仏教の言葉には無我という言葉があるがこの言葉が好きだ。

自分という存在はない、自分にはとらわれない、こういう響きがして好きだ。

 

今回のブログ、自分自身でも何を書きたいのかがいまいち定まっていませんでした。

だけどそれでも書いてみたかったので書きました。

今日も読んでくださりありがとうございました^^

今日も皆様の一日が素敵な日となりますように^^

ではまた!^^