おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
外に答えはない
今回ブログを書くにあたって尹雄大著『モヤモヤの正体 ~迷惑とワガママの呪いを解く~』を参考引用しています。(一部変更)
以下の文章を引用しました。
職場で「目標が実現できなかったのは努力不足だからだ」と頭ごなしに言われたとします。それに対して「今回の案件については、その考えは妥当ではない。到底受け入れられない。」と判断して突っぱねるのではなく、「そうかもしれない」と不安になって、相手の言い分を理解しようとつい努めてしまいます。
直感としては「おかしい」とちゃんとわかっていても、そのわかりかたを大事にできない。上司やメンター、または権力を持っていたり、社会的に認知された講師から言われると「そうなのかもしれない。そう思えないのは自分の理解が足りていないからかもしれない」とつい思ってしまう。
自分を疑い、相手の言明を答えとして受け取って理解しようとしてしまい、それまで培ってきた自分の感覚や経験から判断することを手放してしまいます。そうなるのはどこかで私たちが「答えは常に他人が用意してくれる」という考えを持っているからではないでしょうか。人生が常に学校の教室での過ごし方と同じものだと思っている節があります。
僕自身がとても不安症です。
不安症なんていうと大層な病気のように聞こえますが、おそらくですが現代日本の多くの人がなにかしらでこの不安症にかかっていると思います。
自分自身が感じる「わかりかた」、「わからなさ」、「モヤモヤ」、「スッキリ」と言った感情を捨てて、僕はすぐに「まわりはどうなんだろう?」、「正解はどうなんだろうか?」と考えます。
そしてそのまわりやら正解やらから外れている自分をとても不安に感じてしまうのです。
そうなると不安を埋めるための正解や、安定、心のよりどころなんかを自分の外に求めるようになります。
それは恋人で会ったり、家族で会ったり、友人で会ったり、
はたまた知識であったり、学問であったり、仕事であったり、趣味であったり。
そういった外に自分の不安を埋める何かを探し、それが見つかるとしばらくの間は安定します。
しかしすべてのものことが移り行く世の中で絶対に安心が続くものことなんて存在しません。
本著には具体的に外に自分の不安を埋める何か、つまり答えはない!と明言されているわけではありませんが、僕自身は自分の迷いを断ち切るためにも「外に答えはない」と言い聞かせています。
「正しさ」との葛藤~間違いながらでも生きていける~
もう一つ引用します。
「正しくあらねばならない」という考えは葛藤の存在を示します。「そうでなければいけない」と言えば言うほど明らかになるのは、当人が決して現状に満足していない様子です。
(中略)
誰しも自分を認められたいし、価値ある存在だと思われたい。幼い頃に「したくなかったこと」を受け入れたのは、親や教師をはじめ外部の承認を得るために仕方なかった選択でした。そうでなければ生きていけないと思った以上、自分の気持ちを犠牲にするほかありません。その対価として社会的に承認されました。
しかし根底に「わかってくれない」という悲しみがあります。そこから生まれる怒りは、「自分にはわかってもらえるだけの価値がない」という無力感と表裏いったいです。
(中略)
他人はともかくまずは私にとっての感覚的な正しさがあります。
しかし私たちが空気を読みあうことで成り立つ世間には私にとっての正しさや公共性よりも優位に置かれるコンセプトがあります。それは「みんながそういう」「みんなそうしてやってきた」に裏打ちされた、慣習としての「正しさ」です。
「正しさ」の吸引力はすさまじいです。
どんな人も、老若男女、いろんな様々な形でこの「正しさ」をどこかで意識して生きています。
しかしいっろんな正しさがある以前にまずは「自分がどう思い、どう感じるか」があります。
数学や科学なんかは現代の科学信望時代には絶対的な正しさを持っていると思われています。
僕は小さいころから「1+1=300でもいいんじゃね?」とか思ってました。
それだと生活はどうなる!?とかそんなことはありえない、とかはどれも外部の意見です。
まずは僕が「1+1」に関してどう感じ、何を思ったかがあるだけです。
しかしそれでは社会、もっというと他者と共存できないから、「共通の正しさ」なるものを求めるようになりました。
とはいえこの「正しさ」は僕じゃないんです。
僕がどう感じ、どう思う、ではないんです。
そりゃ自分とは違うものを無理に追い求めていたら生きづらいに決まってます。
僕は自分への正しさからの防護柵として
何考えても、何を思ってもいい。
そして、間違っても人は生きていける、の2つを大切にしています。
また引用します。
ものごとの理解が間違っていたとしても、それにもかかわらず私たちは現にこうして生きています。
自分の思考、考えがたとえ間違った理解、解釈だとしてもそれで死ぬわけじゃありません。
今日も明日もただ淡々と人生は続いていきます。
ただそれだけのことなんです。
それなら僕は自分がどう感じ、どう思うかを大切にしたいですね。
考えだせば人生はわからないことだらけです。
頭がいいとされている学者はそういったことに論理という武器でもって、理由付けをしてきますが、僕の人生には関係ありません。
僕は僕であって、あなたではありませんから。
今日のブログは以上です^^
今日も皆様の一日が素敵な日となりますように^^
ではまた!^^