おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
行動の意味を考え始めたら「生きる意味」にたどり着く
今、三木那由他著『話し手の意味の心理性と公共性~コミュニケーションの哲学へ~』という本を図書館で借りてきて読んでいる。
全く分からない。難しすぎる。
僕の頭では2ページ読むのに30分かかる。
「読む」たってしょせんなんとか文字を追えるくらいで本の内容はテンで頭に入ってこない。
こういうわけもわからない、一切頭に入ってこない本を読むたびに僕は思う。
「ああ、僕は今何をやっているんだろう」と。
これがわかりやすくて、僕程度の頭の持ち主でもすらすらと読める本ならそこそこ有意義な時間となる。だからか最近では僕は入門書や、中高生(なんなら小学生)にもわかるように書かれている本ばかりを読んでいる。
そっちのほうが内容も頭に入ってくるし、時間も有意義に使えるし、自分のメンタルにもいいしいいこと尽くしだからだ。
閑話休題。
で、「僕は今何をやっているんだろう」という虚無感にも似た感覚に襲われると、その思考はすぐさま「僕が今ここに生きている意味ってなんなんだろうな」と問いの姿形を変える。
当然だけどそんなことわかるはずがない。
わかるはずがないのに、モヤモヤして頭のなかの一部分をずっと占領しつづけている。
自分の確固とした世界の見方
自分の確固として信念や、価値観でもってこの流動し変化し続ける世界を眺めたい。
そういう変わらぬ<自分>というものさしで世界をはかりたい。
不動の何かを手にれるために僕は読書をしている節がある。
しかも半ば強迫的に。
頭のいい学者が言っていること、教科書に書いてあること、世間で正しいとされていること、そういったことの多くに僕は「それって違うんじゃない?」と疑問を挟む。
その疑問がたとえ屁理屈であっても(というか他人から見ればほとんどの場合が屁理屈らしい)疑問を挟む心に嘘は付けない。
僕は自分独自の疑問でもって世界を見た。だから周りの人が僕のような疑問を持たないことに「どうしてだろうか」という疑問を常に持ち続けている。
自分だけが他の人は考えない様なことを考えているとどうしよもなく寂しく、孤独になっていく。(僕の孤独の源泉の1つだ。)
だから自分と同じ疑問を持っている人がいないかを本で探した。
しかし、いくら本を探しても当然だけど全く同じ疑問を持っている人はいない。(似たような人はたくさんいるけれど)
自分一人の疑問、共有できない考え、こういったことを背負って僕は(ひいては人間は)生きていくしかないのかなと現在は思っている。
生きる意味とか、自分だけがこんな考えを持っているとか、言うなればただ生きることの恐怖から発生している感情ともいえる。
別に自分だけでもいいじゃないか。生きる意味?そんなもん気にするくらいなら今日の夜飯を何食べるかを考えて明日も生きよう。
ただ生きることができれば悩みなんてのは存在しなくなるのかな。
僕たちは「意味」に囲まれ過ぎた。
本当はなにもかも無意味な虚無の上を生きているだけなのに。
そして本来はそれが一番楽な生き方でもあると思う。
今日もよろしく。