「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「わからない」に耐えていく。難しいけどね。

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 

なぜ生きているのか、

なぜ生まれたのか、

なにをして生きることが自分にとって一番の幸せなのか、

自分にとっての幸せって何だろうか。

 

わからないことばかりだ。

科学なんかの世界では「わからないこと」はいいこととされる。

でもそれは「わかる」ことを前提としている。

「わかる」ためには、まず「わからない」が先に来なければならない。

わからないがたくさんあれば、わかること(わかる可能性)もそれだけあるということだ。

 

しかしこの考え方が僕は好きじゃない。

なんだかとても傲慢な感じがするのだ。

この世の神羅万象世界現象を解明してやる、謎に満ちていることは解き明かす楽しみがある、

こういうことを聴いたり目にするたびに、たかだか人間という存在がこのわけのわからぬカオスの世界を解き明かそうとするなんてすごく傲慢なように感じられるのだ。

 

「わからないこと」は悪いことじゃない。

いや、もっというと「わからない」に「いい、悪い」もない。

「わからない」がすべてなんだ。

そのわからないを人間が捉えられる小さな小さな認識の範囲で「わかる」としていることが少しだけある、それだけのことだ。

 

どんな物事も自分の頭でこねくり始めて、疑ってかかるとすぐに「わからない」にぶち当たる。

頭のいい学者なんかは、「それは論理の筋道が違う」とか、「矛盾している」とか、いろいろ言うんだろうけれど僕の感じている「わからない」は「わからない」なんだ。

 

なんでもかんでも「わかる」に持っていくことを僕はもう疲れてしまった。

ほんと学者さんや発明家含め「わかる」を追い求める人って体力、精神力、そしてわかるを追い求めるワクワク度がすごいんだろうなあと感心してしまう。(偉そうでごめんなさい。)

 

とはいえ、

わからないをわからないままにしておくことはとても勇気のいることだ。

人間はわからないことがあると不安になる生き物だから(本当かな?)。

人間は言うなればどんな人であれわかりたい生き物なんだ。

だからわからないことがあると不安になる。

それにプラスアルファして現代ではとにもかくにも答えを見つけて、課題を解決することがよしとされているので、どんどんわからないことへの恐怖心が大きくなっている時代だと思う。

 

だから僕はこれから少しずつ「わからないこと」に耐えられるようになりたい。

怖いことだし、すぐに思考を始めてわかろうとしてしまうけれど、僕はわからないに耐えたい。

そっちのほうが楽だと僕は直感的に感じてるから、この直感を信じたい。

くまのプーさんみたいになりたい感じかな。

 

本当は今日は相対主義の気楽さについて書こうと思っていた。

なのにわからないの話になった。

わからないもんだな^^

 

今日もよろしく。