おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
わかりもしない完璧を求めてしまい苦しかった。
だけれど「求めた」ということは若干なりともは「完璧」というもの(こと?)がどういう類のものかわかっていたのかもしれない。
世間では「完璧なんて存在しないよ」と言われる。
より正確に言えば「完璧な人なんていないよ」と言われる。
多数の人からかけてもらった言葉だがこの言葉を聞くといつもモヤモヤする。
自分で「完璧」を求めてつらくなっている身としてこんな疑問を持つのはあれなんだが、「完璧な人」ってのも「完璧じゃない人」ってのもどちらも僕からしたらどんな存在かわからないんだ。
完璧なんて存在しない、と言うなればそれは「完璧というものがどういったことかわかっている」ことになる。
わかりもしないものを存在するとか、しないとかは言えないはずだ。
それに完璧という基準があるからこそ「完璧ではない」という概念が成立し得る。
そのうえで僕は「完璧」なるものがそもそもわからないんだ。
だけれど最初に書いたように全く分からないかと言われればそうでもなくて日常のイメージとしては「完璧」という概念の輪郭はつかんでいるような気はする。
・君の英語は完璧だ。
・この理論は完璧だ。
・彼の仕事に対する情熱は完璧だ。
・就活の準備としては完璧だ
などの日常の言葉の使い方からぼんやりと完璧のイメージはつかめる。
となるとたい。
僕はそもそも「完璧」なるものが何かもわかっていないのにそれを自分のおぼろげな感覚だけを頼りに求め続けたからこそつらくなったのではないのか?
かといって「完璧じゃない」ってのもわからないもんだから余計にわからんくなってしまったっちゃなかろうかいな。
一つの僕の出した暫定案としては、「完璧なんてないよ。完璧な人なんていないよ。」という完璧ではないことを受け入れるのではなくて(完璧がわからないんだからそれはできない。)、ものすごく単純な話で「完璧」を求めることをただやめる、これしかないような気がする。
どうすればやめることができるのか?
それはずっとこのブログで書き続けている通り模索中です。
今日も頭の中がややこしかです。
今日から徳島いっちきます^^
全国の仲間に会ってきます~
今日もよろしく。