「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

コミュニケーションの方法

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 

なかなか初対面の人と会話をすることができない。

集団の中で会話をすることができない。

 

僕は、これらの理由を今までの人生において話し方、声の大きさ、テンションの高さ、そして人との距離の詰め方を怒られてきたからだと思っている。

幼稚園、小学校、中学校、高校とありとあらゆる人に「コミュニケーションの取り方」について指摘されてきた。

・人が近くにいるときは大声を出さない。

・人が話しているときは、話し終わってから話しかける。

・一気に距離を詰めたことを聞くのではなく、まずは当たり障りのないことから聞いていく。

などなど。

 

苦しかったのは、最初僕は決して悪気があって自分なりのコミュニケーションを取っていたわけではなく、自分の中でこうすればきっと楽しい会話になると思っていた。それを真正面から大多数の人に否定されたことである。

社会をそつなくわたっていくには自分のコミュニケーションの仕方は封印しなければいけない。

そのことがすごくショックだった。

 

(何が普通かはわからないけれどと前置きしたうえで)普通の人は、こういった状況において、自分独自のコミュニケーションの取り方と、社会から要請されるコミュニケーションをいい塩梅で融合することができるんだろうけれど、僕の場合それができなかった。

「社会から要請されるコミュニケーション方法」か、「自分のもともとのコミュニケーション方法」か。

0,100思考の僕はどちらかに傾くことしかできない。

だから人と関わるときは100「社会から要請されるコミュニケーション方法」で行くことにした。

すると、自分から他者に話しかけることがとても苦手になった。話しかけようとすると、ついついメーターが「自分のもともとのコミュニケーション方法」に振り切ってしまって相手との距離感が眼中になくなってしまう。

だから人と話しているとき、自分のことを話すとなったら基本的に「少し長くなるけれどいいですか?」とか「テンションあがりすぎたら止めてください(笑)」と言うようにしている。

だけれどなかなか上記のようなことを確認できるタイミングもあまりない。

それが一番最初に書いた、「初対面の人とのコミュニケーション」や特に「集団での会話」の時。

 

過去の自分が指摘されたり、怒られた経験にプラスして、自分の発達障害の特性も加わって人とコミュニケーションを取るってことがすごく難しいように感じられている。

いや、もっと正確に書くなら人とコミュニケーションを取ることに「とても疲れてしまう」

だけど別に人が嫌いなわけじゃなく、人と関わるのは大好きという困ったちゃんだ。

 

この話続きます。

 

今日もよろしく。