おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigbaguこと桂木大輝です。
人に親切にして「あげてる」、
自分に好意を持ってもらうためにやさしくして「あげてる」、
このように他者にする親切な行為に「してあげてる感」が見えてしまうと一気に興ざめてしまいます。(「興ざめ」という言葉が適切かはわかりませんが、僕の感覚的にこの言葉が一番しっくりきました。)
そして他者に親切にして「あげてる」という人は、ほとんどがその親切にした分の見返りを期待します。
その見返りが得られなかったときは決まって、「これだけしてあげたのに!」、「誰のためにやったと思ってんだよ!」などの言葉が飛び出します。
しかし本来親切というのは「見返りを求めず自分がやりたいからやる行為」なんじゃないでしょうか。
そこに相手からの見返りを求めてしまってはそれは「親切」ではなく、「取引」です。
かくいう僕自身もずっと見返りを求めるための親切をずっとやっていました。
でもこういうのって十中八九相手に「この人の親切恩着せがましいな」ってばれてるんですよね。
だからばれちゃってる分余計に感謝したくなくなるわけです。
そうなると僕は見返り(感謝)を求めてやっているのにそれが手に入らないからすごく不機嫌になるんです。
もうほんと子どもと一緒ですよね💦
ただ人間だれしも自分が行った行為の見返りってどこかでは期待していると思うんですよ。
100%見返りを期待していないって人はいないと思います。
だから要はどれだけその見返りを求める心(欲)と折り合いをつけられるかが大事になってくるんじゃないかなと思います。
結局これも経験して、痛い目見て、培っていくものなんですけどね。
そういう意味では、今見返りを期待しまくっている人もいつか自分が見返りを期待しいては見返りは返ってこないことに気づくための、必要な行為なのかもしれませんね。
はい、今日もよろしくおねがいします。